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白野 夏雲(しらの かうん、文政10年閏6月26日(1827年8月18日) - 明治33年(1900年)9月8日)は、明治時代の物産研究家、アイヌ語研究家。本名は今泉耕作。 ==生涯== 甲斐国都留郡白野村(現在の山梨県大月市笹子町)の出身。代官の手代の家に生まれたがあまり教育を受けることができず、岩瀬忠震が徽典館の学頭をしていたときにその学僕となって少し書物を読んだ程度という。幕末には江戸に出て、幕府・歩兵の輜重隊の頭と軍事顧問を命ぜられ小川町に駐屯していた。1864年に天狗党の乱が起き、日光の警備を命じられ任地に赴く。1868年に彰義隊が上野に立てこもった時は浅草の蔵を守っていたが、官軍が江戸に入り徳川の残党を追求するに至って、隊を率いて新宿口から甲州へと逃げることができた。 1873年2月に開拓九等出仕に任命され、3月に広尾郡詰を命じられ8月に開拓権大主典に昇進している。北海道には1年半いて物産地質の調査にあたり、この時アイヌ語の研究にも着手したと思われる〔。東京に戻り1875年に地理寮十一等出仕に任命されて土石調査を行い、1877年には内務六等属に転じ地理局に勤め、同じ年の内国勧業博覧会には委員と審査官を命ぜられている。1879年、鹿児島県知事であった渡辺千秋に抜擢され、勧業課勧業掛に転任。授産場・橋の建設に携わる。この頃、田代安定と知り合い親交を結ぶ。1890年に鹿児島県庁を退職し、東京に移る。ところが、家督を譲って頼りにしていた息子に1893年に死なれてしまい、日光の祠官として生計を立て、まもなく死去する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「白野夏雲」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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