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オングト〔『元朝秘史』〕、もしくはオングート〔、オングート部〔(汪古〔・白達達部〔『元史』太祖本紀〕、Ongud)は、モンゴル帝国以前から元代にかけて存在した遊牧民族。タタル部が「黒韃靼」と呼ばれたのに対して「白韃靼」とよばれた〔南宋の使節趙珙の報告書『黒韃備録』『黒韃事略』より。〕。 ==概要== 元来はテュルク系民族であり、突厥沙陀族とウイグルの一部などが合流して構成された民族と考えられている。次第にモンゴル化するようになった〔C.M.ドーソン(訳注:佐口透)『モンゴル帝国史1』(1989年、東洋文庫、平凡社、1968年3月、ISBN 4582801102)p309-311〕。 オングトは、陰山山脈北辺にある内蒙古ウランチャブ(烏蘭察布)にある盟百霊廟の北東のアイブガ川左岸付近のオロン・スム(Olon süm)を本拠地として、はじめは、遼や金あるいは西夏に服属した。 後にチンギス・カンのモンゴル帝国が勃興すると、首長のアラクシ・ディギト・クリ(アラクシ・テギン)は、ナイマンの首長タヤン・カンの催促を断り、使者を派遣してチンギス・カンにこの旨を伝えた〔C.M.ドーソン(訳注:佐口透)『モンゴル帝国史1』p75〕。 そのため、チンギス・カンに感謝され、その同盟者として優遇された。以降のオングトの代々の首長に大ハーン(チンギス・カン家)の皇女(公主)が降嫁し、オングト駙馬王家とも称される。元では趙王の爵位に封じられて、そのまま内モンゴルのオロン・スムを居城とした。オングトは敬虔なネストリウス派キリスト教徒であり、首長はその司教位も保持していたという。 元の崩壊後は明の攻撃を受けてオロン・スムが陥落し、その末裔はダヤン・ハーンの時代にはトメト部右翼の一部となっていた〔宮脇淳子『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』(2002年、刀水書房、ISBN 4887082444)p149-151〕。 1929年にスウェーデンの学者のスヴェン・ヘディン率いる西北科学考査団の一員である黄文弼によって、オロン・スムの土城址が発見された。また、訪中した江上波夫は、オロン・スムに十字架のあるネストリウス派教徒の墓石を発見した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オングト」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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