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百人町(ひゃくにんちょう)は東京都新宿区の町名〔『角川日本地名大辞典 13 東京都』、角川書店、1991年再版、P878 〕。百人町一丁目から百人町四丁目までが設置されている。郵便番号は169-0073。 == 地理 == 江戸時代からツツジの名所として知られたが、1903年6月に日比谷公園が開設されるとツツジの多くはそちらへ転売され、それ以後は宅地化が進んだ〔徳永康元『ブダペスト回想』所収「大久保の七十年」〕。戦前は静かな住宅地で〔川本三郎「郊外の文学誌」p.48〕、夏目漱石の『三四郎』では寺田寅彦をモデルとする野々宮宗八の住む場所に設定され、郊外の寂しい住宅地として描かれている。小学校の時分から百人町近辺に育った洋画家の曽宮一念は、「その頃の大久保は武蔵野の入口であったと同時に江戸時代からの静かな隠栖の地、又遊山の地でもあったらしい」と述べている〔曽宮一念「明治時代の大久保」(「文学散歩」1961年10月号)〕。林芙美子の『稲妻』(1936年)に「山の手の大久保」との表現が登場することから、この近辺は大正から昭和にかけて「郊外」から「山の手」になったと川本三郎は考えている〔。 作家の岡本綺堂、大町桂月、岩野泡鳴、蒲原有明、国木田独歩、若山牧水、葛西善蔵、内田魯庵、林芙美子、下村湖人、小栗風葉、邦枝完二、岸田國士、詩人西條八十、服部嘉香、水野葉舟、歌人金子薫園、英文学者戸川秋骨、中国文学者奥野信太郎、ジャーナリスト幸徳秋水、思想家北一輝が住んでいた他〔茅原健「新宿・大久保文士村点描」(「日本古書通信」2001年8月号、9月号)〕〔木村梢「東京山の手昔がたり」(世界文化社、1996年)〕〔菖蒲号 明治43年5月1日 「中央文壇に於ける文士分布図」 〕、3丁目には化学者で元学士院長の柴田雄次や経済学者の大内兵衛などの邸宅もあった〔「新編江藤淳文学集成」第5巻、p.370。〕。文芸評論家の江藤淳や作曲家の柴田南雄、ハンガリー文学者の徳永康元も百人町出身である〔〔柴田南雄「わが音楽わが人生」〕〔徳永康元「ブダペスト日記」〕。「外人村」と呼ばれる一画には、初期の日本楽壇に貢献した外国人音楽家たちが住んでいた〔川本三郎「郊外の文学誌」p.66〕。 戦後は「音楽の町」「楽器の町」として知られていたが、やがて連れ込み宿の立ち並ぶ盛り場となり、この街に生まれ育った江藤淳は1965年に百人町を訪れてショックを受けている〔江藤淳「戦後と私」〕。現在は新宿区内で最も外国人居住者の多い場所であり、韓国人向けの店舗が多い職安通りがある百人町は、大久保と合わせて日本最大のコリア・タウンと言われている。周辺に韓国や中国をはじめタイ、ミャンマー等のアジア諸国の料理店・雑貨店といったエスニックの要素が顕著であることで有名な街であるが地理的に新宿の繁華街から連続しており、各種オフィスも多い。他に一般住居や各種専門学校が多く集まる、あるいは歌舞伎町に近い地区にはラブホテル街が立ち並んだりといった色々な顔を持つ街でもある。一丁目に新大久保駅、大久保駅がある。歌舞伎町を挟んで、他に、駅周辺は住居にラブホテル・専門学校などが混在している。駅周辺以外は住宅街であり、山手線沿いの東京グローブ座を有する西戸山タワーホームズ(百人町3-1,1988年3月竣工)に代表される高層マンションや、建て替えの済んだ都営住宅が建つ。 なお、この百人町のほかに旧大久保町としての区域には新宿六丁目・新宿七丁目や歌舞伎町二丁目も含み、牛込地区の余丁町も江戸時代は大久保村であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「百人町」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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