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百団大戦(ひゃくだんたいせん)は、日中戦争中の1940年8月から12月にかけ、山西省・河北省周辺一帯において、中華民国国民革命軍に参加中の中国共産党軍と、大日本帝国陸軍の間で起きた一連の戦い。「百団大戦」は中国側の呼称で、中国共産党軍の参加兵力が約100個の「団」(連隊に相当)とされることに由来する。小部隊でのゲリラ戦を得意とした中国共産党の八路軍が、初めて行った大規模な攻勢である。日本側は、第一期・第二期晋中作戦などの掃討作戦を発動して対抗した。中国共産党軍は日本軍の警備部隊や施設に損害を与える一定の戦術的成功を収めたが、作戦の戦略的意義については評価が分かれている。 == 背景 == === 華北での共産党勢力の伸長 === 日中戦争の勃発後、日本陸軍は華北一帯を占領下に置いたが、中国国民党政権系の軍が撤退した後の権力の空白に乗じて勢力を伸ばしたのが中国共産党だった。開戦前に山西省で閻錫山(国民党に帰順)と提携していた中国共産党は、日本陸軍の進攻によって閻錫山の第2戦区軍が陝西省に退避すると、後に残って山西省の根拠地化を図った。河北省でも、共産党軍が、国民党政権から冀察戦区司令官に任じられていた鹿鍾麟を攻撃して追放してしまった〔『支那事変陸軍作戦(3)』、251頁。〕。山西省を占領中の日本の第1軍は、1940年4月から6月にかけて、晋南地域に残る衛立煌の第1戦区軍を攻撃したが、このときも中国共産党は日本軍の進撃の後を追うように勢力圏を広げた〔『支那事変陸軍作戦(3)』、252頁。〕。 中国共産党の部隊である八路軍は、建前上は国民革命軍の一部として国民党政権指揮下の共同部隊であったが、実際には他の国民革命軍部隊の赤化工作や、民兵の組織を積極的に行って、独自の戦力養成に努めた。1940年春には、山西省に展開していた国民党系の第97軍のほとんどを吸収していた。八路軍の装備は迫撃砲や機関銃程度の範囲ではあるものの次第に充実し、ヘルメットを着用した兵士が増えている。兵の練度も向上してきた。しかし、八路軍は「政治七分、軍事三分」を標榜し、前述のように国民党政権軍の戦闘に積極的に協力せず、日本軍との直接交戦は避けることを基本としていた〔。 日本陸軍は、1940年には共産党の勢力拡大を危惧しており、徐々に八路軍への攻撃を増やしていった。北支那方面軍は、昭和15年度粛正建設計画の中で、共産党軍を重点攻撃対象と定めていた。もっとも北支那方面軍に属する第1軍は、前述のように国民党政権の正規部隊の撃破も依然として重視していた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「百団大戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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