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百官名(ひゃっかんな)とは家系や親、本人の官職名を通称として用いることを言う。仮名の一種である〔 松村明編『大辞林 第三版』(三省堂、2006年)2156頁、新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店、2011年)2391頁参照。〕。 == 百官名 == 鎌倉時代より朝廷が、儀式や法会の資金を調達するため、金銭と引き換えにして衛府や馬寮の三等官(尉、允)に御家人を任官させたり、有力御家人を名国司(実体のない国守の名称)に補任することがたびたび行われ、武士の間に官名を称することが普及するようになった。 南北朝時代にも北朝方の足利尊氏や南朝方の北畠顕信らがそれぞれに配下となった武将に官途書出といって、叙位任官を朝廷に取り次ぎ与える風習があったが、室町時代以降になると、守護大名が家臣や服属してきた被官に対して官途状を発給し受領名(国司の官名)を授与し、その官名の私称を許す事例が表れるようになった。しかし、これは朝廷の関知しない僭称であり、公式の場では官名を略したり、違う表現に置き換えたりした。また、太郎、次郎などの輩行名と左衛門、兵衛などの官職名を組み合わせた名を与える、仮名書出という習慣も武家社会の中で登場し、主君が家臣に与える名として活用された〔 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典第3巻』(吉川弘文館、1983年)900頁~901頁参照。〕。 また、先祖が補任された官職や主家から与えられた受領名を子孫がそのまま用いるケースも現れ、朝廷が関知せず、武士が官名を私称する自官という慣習が定着していった。家系や親の持つ官職を名乗るという意味を持つ百官名はこうした習慣の中から生まれた。百官名が受領名と異なるのは、受領名が正式な官職名を私称として用いることを指すのに対して、百官名は必ずしも正式な官名を指すものではなくなっていった点である。特に、戦国時代頃から、武士の間で官名を略し、大膳や修理など省庁の名のみを名乗るものや、将監、将曹など官職の等級のみを名乗る風習が広がり、次第に受領名と百官名はその特徴を異にしていったのである〔 。また、稀な例に戦国時代の尾張守護代 織田信友の家老として織田三位なる人物があり、また織田信長の兵法の師として平田三位の名もあるが、これも正式な朝廷の位階ではないという点で百官名の一種と看做すことができる〔織田三位については谷口克広著『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺』(中央公論新社、2002年)38頁、堀新編『信長公記を読む』(吉川弘文館、2009年) 8頁参照。また、平田三位については太田牛一著『信長公記』(甫喜山景雄、1881年)4頁、 巻首 「上総介殿形儀の事」及び同17頁巻首「天沢長老物かなりの事」を参照のこと。〕。 なお、百官名を名乗る際は通常、名字の次、諱の前に入れて名乗る(例:安島帯刀、興津蔵人など)。正式な官名とは若干異なる読みをするものもある(例:蔵人は、官職は“くろうど”、百官名は“くらんど”)また、特に関東地方では百官名と並んで、頼母や一学など正式な官職名でないが官職に似せた名としてさまざまな擬似官名が発達し広く武家社会に定着していった(これを東百官、武家百官と言った)〔国史大辞典編集委員会編『国史大辞典第1巻』(吉川弘文館、1983年)214頁参照。〕。 明治時代に戸籍制度ができると、それまでの冗長な人名命名法の多くは廃止または衰退していったが、百官名も人名の一種として残った。現代でも百官名に因んだ名を見ることがある。片山右京や真木蔵人などはその例であろう。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「百官名」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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