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百済 河成(くだら の かわなり、延暦元年(782年) - 仁寿3年8月24日(853年9月30日))は、平安時代初期の貴族・画家。氏姓は余(あぐり。無姓)のち百済朝臣。百済の第28代の王である恵王の後裔で〔『新撰姓氏録』左京諸蕃〕、余時善の子で、子に岑人がいたとする系図がある〔鈴木真年『百家系図稿』巻9,百済朝臣〕。官位は従五位下・安芸介。 == 経歴 == 大同3年(808年)に左近衛府に任ぜられるが、絵画に優れていたことから宮中に召し出された。 弘仁14年(823年)美作権少目。天長10年(833年)外従五位下に叙せられる。承和年間に備中介・播磨介・安芸介を務めるなど地方官を歴任した。この間、承和7年(840年)兄・福成らとともに合わせて3人が百済朝臣姓の賜与を受け〔『続日本後紀』承和7年6月22日条。ただし、承和12年正月7日条および承和13年2月29日条では「百済宿禰河成」という表記が見られる。〕、承和12年(845年)には内位の従五位下に叙せられている。 仁寿3年(853年)8月24日卒去。享年72。最終官位は散位従五位下。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「百済河成」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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