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百済王 南典(くだらのこにきし の なんてん)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての公卿。贈外小紫・百済王昌成の子〔栗原信充考訂『百済王三松氏系図』。〕。子に麻呂がいた〔。 == 経歴 == 持統天皇5年(691年)正月に一族の百済王禅広らとともに、天皇から優(賑わしくする物)を与えられた(このときは無位)〔『日本書紀』持統天皇5年正月7日条。〕。 持統天皇10年(696年)直大肆(従五位上相当)に叙せられる。和銅元年(708年)備前守に任ぜられ(当時の位階は従四位下)、備前守在任中の和銅6年(713年)には備前介・上毛野堅身とともに上申して、備前国から英多郡、勝田郡、苫田郡、久米郡、真嶋郡、大庭郡の六郡を分割して美作国を成立させた〔『伊呂波字類抄』。〕。和銅8年(715年)従四位上。 元正朝では養老5年(721年)播磨按察使、養老7年(723年)正四位下に叙任されている。 聖武朝では老臣として、天平7年(735年)正四位上、天平9年(737年)従三位に叙せられて公卿に列している。没年は明らかでないが、天平宝字2年(758年)迄には薨じたという〔『公卿補任』。〕。また、大阪府枚方市にあった百済寺は南典を弔うために没後百済王敬福または明信によって創建されたという説がある〔『枚方市史』。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「百済王南典」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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