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百瀬 渡(ももせ わたる〔大政翼賛会に抗した40人 - 自民党源流の代議士たち p.137-139 朝日新聞社(楠精一郎、2006/07、朝日選書 801) ISBN 978-4022599018〕、1874年2月5日〔 - 1945年12月21日〔〔)は、長野県出身の政治家。 == 来歴 == 1888年(明治21年)に松本中学校に入ったが2年後に中退。降旗元太郎のいた信陽日報(後の信濃日報)に記者として入社した。記者を続けながら(後に同社の社長となる〔人事興信所『人事興信録 第十版 下』モ16、1934年〕)、中山村村会議員も務めた〔。東筑摩郡会議員を経て〔〔、1912年(明治45年)以来、長野県会議員に毎回当選〔人事興信所『人事興信録 第九版』モ15-16、1931年〕。 その後の代議士時代には「原蚕種国営に関する建議」を提出するなどした〔農林水産省における蚕糸試験研究の歴史 p.46 - 生物研(農業生物資源研究所)〕。翼賛政治体制に反対の立場を取り、院内会派「同交会」に所属したが〔翼賛政治への参加「不愉快極まる」 鳩山一郎の手紙、松本で - 信濃毎日新聞、2011年8月31日〕、1942年(昭和17年)4月30日の翼賛選挙(第21回衆議院議員総選挙)には出馬しなかった(市政=後述に専念するためという説がある〔)。 1940年(昭和15年)から1944年(昭和19年)までは、松本市長を1期務めた〔。長いひげの風貌で「蒙古王」と呼ばれ、親しまれた〔「蒙古王」政治家・百瀬渡の足跡後世に 長野、評伝完成 - 朝日新聞デジタル:地域、2012年12月25日00時49分〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「百瀬渡」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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