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的山 哲也(まとやま てつや、1970年10月1日 - )は、兵庫県姫路市出身の元プロ野球選手(捕手)。から福岡ソフトバンクホークスのバッテリーコーチを務めている。 == 経歴 == === 近鉄時代 === 兵庫県立福崎高等学校を卒業後、社会人野球の新日鐵広畑を経て、1993年のドラフト4位で近鉄バファローズに入団。 入団後しばらくは古久保健二と光山英和の2人の正捕手がいたため出番が無かったが、4年目の、両者の衰えとともに一気に出場機会を増やしレギュラー格となった。打撃が明らかに上だった礒部公一よりもリードと肩の強さが評価され、これ以降レギュラーを保持し続ける。 は自己最多の117試合に出場し、打率.235、8本塁打、39打点とキャリアハイの成績を残した。 しかし、あまりに的山が打てないため、一度は外野にコンバートされた礒部が梨田昌孝の指導でに再び捕手に専念。的山の出場機会は激減するかに思われたが、礒部がシーズン中に顔面死球で骨折したことにより離脱したため、出場機会は減少したものの正捕手の座を譲るには至らなかった。7月9日にスタメンでファーストを守っていたフィル・クラークが戎信行に死球を受け骨折、急遽的山がファーストに入った。これは的山が捕手以外を守った唯一の年であり、唯一の試合である。 は再び礒部との正捕手争いが続くと思われたが、礒部がオープン戦で8盗塁全てを刺せなかったことから外野に再転向し、シーズン中盤まで正捕手の座を譲らなかった。しかし、西武・ダイエーとの三つ巴の優勝争いが続く中で投手陣が防御率5点前後を推移し、的山の打率も2割を切る状態だったため、シーズン終盤は的山よりリードが評価されていたベテランの古久保が捕手を務めた。チームは12年ぶりの優勝を果たし捕手陣の中では最も出場機会が多かった。 は城島健司の代替選手としてオールスターゲーム出場を果たす。第2戦で勝利打点を挙げた的山は、他に際立った働きをした選手がいなかったためにパ・リーグ捕手としては同年、全パの監督だった梨田昌孝(1983年第2戦)以来となるMVPを獲得。ヒーローインタビューで「大勢の有名選手と一緒にプレーできたのは本当に良かったです」とコメントし、両軍ベンチを爆笑させた。梨田も「多分雨が降ると思いますので、皆様気をつけてお帰り下さい。非常に珍しい事ですので」と笑いながら語った。 は藤井彰人と正捕手争いを繰り広げる。開幕戦スタメンを奪われ、同年最多勝利を挙げた岩隈久志が先発するときは藤井がマスクをかぶった。6月までは両者が並行して使われたが、7月になると的山が正捕手を奪い返し藤井の出場は1試合もなかったが、8月以降は再び藤井が起用され、スタメン出場は8試合にとどまった。シーズンオフには高須洋介と共に目のレーシック手術を受けて視力回復に成功、トレードマークだった眼鏡が無くなった。同年オフ、選手分配ドラフトでオリックス・バファローズへ移籍。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「的山哲也」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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