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的盧(てきろ)とは、額に白い模様を有する馬、あるいはその模様である。額の白い模様が口に入り歯に達しているものを「楡雁」またの名を「的盧」といい、しもべが乗れば客死し、主が乗れば刑死するという凶馬である〔盧弼『三国志集解』巻32・先主伝や『世説新語』上巻上・徳行1・劉孝標の注が引く伯楽『相馬経』による。『晋書』巻73・庾亮伝などは「的"顱"」に作る。本稿で「的"顱"」とする箇所は原文に従ったものである。〕。 この特徴を備えたものとして劉備の乗馬が知られる他、東晋の庾亮も的盧のある馬に乗ったとされ、南朝梁・呉均の詩『行路難』にも「青驪白駮的盧馬」という句がみえる。 ==劉備の馬== 『三国志』では蜀書「先主伝」注に引く『世語』に記載がある。劉備が劉表のもとに身を寄せていた時期、蔡瑁と蒯越が謀って宴会にかこつけて劉備を害そうとしたため、劉備が的盧に乗って単騎逃走したところ、檀渓の水中にはまって出られなくなってしまった。そこで劉備が的盧に「的廬、的廬、ついに祟ったか」と言うと、的盧は一躍三丈を跳び、そのために難を逃れる事ができたという。 明・張溥が西晋・傅玄の文章を輯した『傅鶉觚集』の「乗輿馬賦序」によれば、劉備が的顱に乗るに至った来歴は大略次の通りである。曹操は劉備が降った際に駿馬を下賜するため、劉備に廏で馬を選ばせた。名馬は百をもって数えたが劉備の意に沿うものはなかった。劉備は下廏で痩せくたびれて骨の浮き出た的顱馬を見つけて撫でてやり、これをもらい受けた。人々は嘲笑した。その後、劉備が荊州で逃走する際、的顱は電光のように速く追手をまいてしまい、人々は態度を改めて感服した。 『水経注』沔水注では「劉備は景升の謀るところとなり、的顱に乗って西のかた逃走し、この渓(檀渓)に墜落した」との記述がある。三国志の記述とほぼ異同がないが、劉表が劉備暗殺の首謀者であったと明言している。 なお、唐の詩人・胡曾の『詠史詩』に檀溪に臨む的盧を詠った句があり、『全唐詩』巻647に「檀溪」と題して収められている。 小説『三国志演義』第34回ではこれらの逸話を脚色し、大いに見せ場としている。もとは降将の張虎の乗馬であったが、劉備が張虎を討伐した際に乗馬を見て「間違いなく千里の馬である」と感嘆し、張虎を打ち破ると奪って劉表に贈った。しかし、馬を見た蒯越が「眼下に涙漕があり、額辺に白点がある。これを的盧といい、乗り手に祟りをなす馬である」と忠告したため、劉表は的盧を劉備に突き返した。劉備にも伊籍が凶馬であるとの忠告をしたが、劉備は「死生命あり、どうして馬に運命を妨げることができようか」と取り合わなかった。その後劉備が蔡瑁に追いかけられていた時、大きな川が道を塞いだ。劉備は「的盧よ的盧!私の運命を妨げるか!」と鞭打つと、突然飛び上がり、一躍対岸へとたどり着いたという〔なお、「蘇学士」なる人物が以上の顛末を詠んだとする詩文が作中に引用されるが、蘇洵・蘇軾・蘇轍らの詩集には存在せず、偽作の疑いが濃い。小川環樹・金田純一郎訳『完訳三国志』(岩波文庫)訳注など参照。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「的盧」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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