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皆川 淇園(みながわ きえん、享保19年12月8日(1735年1月1日) - 文化4年5月16日(1807年6月21日))は、江戸時代中期の儒学者。父は皆川成慶(春洞、白洲)で、実弟に国学者富士谷成章(層城、北辺)、甥に国学者富士谷御杖がいる〔『京都大事典』(皆川淇園)淡交社、1984年、p.879〕。淇園は号で、名は愿(げん)、字は伯恭(はくきょう)、通称は文蔵(ぶんぞう)、別号に有斐斎(ゆうひさい)がある〔日本大百科全書(皆川淇園)〕。生まれは京都。 == 生涯 == 皆川春洞の第二子、長男として京都正親町坊(中立売室町西)に生まれる。9人兄弟であった。4、5歳頃には杜甫の詩を覚えていたといわれる〔『皆川淇園・大田錦城』〈叢書・日本の思想家26〉明徳出版社、1986年、p.22〕。 伊藤錦里や三宅元献などに儒学を学んだ。易学について研究を深め、独自の言語論により「名」と「物」との関係を解釈する開物論を唱え、「老子」「荘子」「列子」「論語」など多くの経書に対する注釈書を著した。亀山藩(松平信岑)・平戸藩(松浦清)・膳所藩(本多康完)などの藩主に賓師として招かれた。 宝暦9年(1759年)より京都・中立売室町西にて門人を受け入れ始めた〔『皆川淇園・大田錦城』〈叢書・日本の思想家26〉明徳出版社、1986年、p.31〕〔門人帳によれば、最も早い門人は宝暦8年1758年の本城宗兵衛。〕。また、江村綬の錫杖堂詩社に影響され、柴野栗山や赤松滄洲らと三白社という詩社を起こす。 絵画の腕も卓越しており、山水画では、師の円山応挙に劣らずという評価も受けている。 晩年の文化2年(1805年)には様々な藩主の援助を受けて京都に学問所「弘道館」を開いた。 志半ばにして、翌年、74歳で没する。 門人は3,000人に及んだといわれる。門弟として富士谷成章(実弟)・巖垣龍渓・稲毛屋山・小浜清渚・東条一堂・北条霞亭などがいる。 京極の阿弥陀寺に葬られた〔国史大辞典(皆川淇園)〕。墓誌は松浦清が文を製し、その書は本多康完が記した。東京国立博物館には「明経先生像」と題された淇園の遺像が残る(渡辺南岳筆、東京国立博物館 情報アーカイブ )。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「皆川淇園」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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