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皇甫謐(こうほ ひつ、215年 - 282年)は、中国の三国時代から西晋にかけての学者。 字は士安、号は玄晏先生。 == 生涯 == 皇甫謐は、後漢の武将として有名な皇甫嵩の曾孫である。安定朝那(現在の寧夏回族自治区彭陽県)に生まれた。 官職には就かず、著述に専念した。寝食を忘れて書を読み、「書淫」と呼ばれたという〔『晋書』皇甫謐「耽玩典籍、忘寢与食、時人謂之書淫。」〕。 西晋の武帝は何度も皇甫謐を招いたが、皇甫謐は仕官を断った。皇甫謐が武帝に対して本を借りたいと申し出たとき、武帝は車いっぱいの本を与えた。 左思が「三都賦」を書いた当初、左思が無名のためもあり評判はよくなかったが、皇甫謐が序文を書いたとたんに皆が褒めるようになったという〔『世説新語』文学〕〔『晋書』文苑伝・左思〕。この序は『文選』に収められている。 皇甫謐が当時流行の寒食散(五石散)を服用して苦しんだことは、魯迅の「魏晋の気風および文章と薬および酒の関係」に記されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「皇甫謐」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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