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紀元二千六百年記念行事(きげんにせんろっぴゃくねんきねんぎょうじ)とは、1940年(昭和15年)に神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝った一連の行事を指す。本ページでは記念行事に記念事業も加えて記述する。 == 概要 == 西暦1940年(昭和15年)が神武天皇の即位から2600年目に当たるとされたことから、日本政府は1935年(昭和10年)に「紀元二千六百年祝典準備委員会」を発足させ、橿原神宮や陵墓の整備などの記念行事を計画・推進した。1937年(昭和12年)7月7日には官民一体の恩賜財団紀元二千六百年奉祝会(総裁・秩父宮雍仁親王、副総裁・近衛文麿、会長・徳川家達)を創設。「神国日本」の国体観念を徹底させようという動きが時節により強められていたため、これらの行事は押し並べて神道色の強いものであった。神祇院が設置され、橿原神宮の整備には全国の修学旅行生を含め121万人が勤労奉仕し、外地の神社である北京神社、南洋神社(パラオ)、建国神廟(満州国)などの海外神社もこの年に建立され、神道の海外進出が促進された〔「神道、海を渡る」大阪朝日新聞昭和16年5月24日〕。また、研究・教育機関では、神宮皇學館が旧制専門学校から旧制大学に昇格した。 日本政府は、日本が長い歴史を持つ偉大な国であることを内外に示し、また日中戦争(支那事変)の長期化とそれに伴う物資統制による銃後の国民生活の窮乏や疲弊感を、様々な祭りや行事への参加で晴らそうとしたこともあり、1940年(昭和15年)には、年初の橿原神宮の初詣ラジオ中継に始まり、紀元節には全国11万もの神社において大祭が行われ、展覧会、体育大会など様々な記念行事が外地を含む全国各地で催された。 1940年(昭和15年)11月10日、宮城前広場において内閣主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に開催された。11月14日まで関連行事が繰り広げられて国民の祝賀ムードは最高潮に達した。また、式典に合わせて「皇紀2600年奉祝曲」が作曲された。 長引く戦争による物資不足を反映して、参加者への接待も簡素化され、また行事終了後に一斉に貼られた大政翼賛会のポスター「祝ひ終つた さあ働かう!」の標語の如く、これを境に再び引き締めに転じ、その後戦時下の国民生活はますます厳しさを増していくことになる。 ファイル:Lets celebrate energetically and cheerfully.JPG|11月14日までのポスター「祝へ!元気に 朗かに」 ファイル:The festival ended Lets work.JPG|11月15日からのポスター「祝ひ終つた さあ働かう!」 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「紀元二千六百年記念行事」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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