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富取益斎(とみとり えきさい、男性、生年不詳 – 文政5年 2月10日(1822年4月1日))は、江戸時代中期の日本の篆刻家である。 本姓は富取氏。名鴻、字を公範、益斎は号。富益斎と中国風に修され、また益斎富鴻と称されることもある。越後の人。 ==略伝== 越後地蔵堂(現在の新潟県燕市、かつての西蒲原郡分水町)に生まれる。父の富取正則は村上領地蔵粗の大庄屋で、妹の里佐は隣家の中村家に嫁いだ。この家には若い頃良寛が下宿しており、子のない里佐に可愛がられていた。益斎は早くに京都に出て四条高倉西に住んだ。医を生業とし、傍らで篆刻をよくした。篆刻の師は杜澂と思われる。天明の大火(天明8年1月30日(1788年))で家を焼失し、一時筑紫に住む娘婿の大村藩士加藤鹿洲を頼って身を寄せ、その後江戸に出る。医業が認められ江戸幕府の上士と交流した。文政初年頃、三島郡北部にある円上寺潟の干拓事業の賀記を書している。 益斎が書き残した『印章備正』は大正2年に山田寒山が刊行するが、三村竹清によって杜澂『澂古印要』の写しであると指摘されている。 越後の日蓮宗常昌寺に葬られる。法号清山院宗游益斎居士。 越後の画家富取芳斎は同族である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「富取益斎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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