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益田 元方(ますだ もとかた、元禄6年(1693年)–明和3年10月13日(1766年11月15日))は、萩藩主毛利氏の重臣で寄組問田益田氏の四代。 父は秋里之勝。母は益田就武の娘。正室は益田就高の娘。子に兼慶、広高、娘に児玉広高室、周布周通室がいる。養嗣子に就白がいる。諱は元信、兼慶、元言、元方。通称は右衛門、図書、河内、孫左衛門。 ==生涯== 元禄6年(1693年)、萩藩大組士(1,005石)秋里之勝の二男として生まれる。父の之勝は右田毛利家の毛利元倶二男元平の孫にあたる。母が益田就武の娘であったことから、叔父の益田就賢に養育され益田兼慶と名のる。のちに問田益田家の益田就高の婿養子に迎えられ、萩藩主毛利吉元の偏諱を貰いはじめ元言、のちに元方と名のる。彼が養嗣子となったのちに、養父就高に益田広堯、宍道広慶が生まれている。 養父就高から家督を相続し藩の重職に就き、のちに当職に就任し藩政の枢機に関わった。寛延3年(1750年)隠居にともない当職を辞職し、後任の当職には義弟にあたる益田広堯が就任した。前当職として寛延4年(1751年)長府藩主毛利匡敬(重就)が宗家相続の際に当職広堯、国元加判役宍戸広周、毛利広定らと協力して「家続願書」を提出するなどして幕府と交渉に当たり、無事に毛利宗家の家督相続を承認されている。 明和3年(1766年)10月13日死去。享年74。家督は長子兼慶の子で養嗣子の就白が継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「益田元方」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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