|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 益 : [やく, えき] 1. (n,n-suf,vs) gain 2. benefit 3. profit 4. use 5. advantage 6. being beneficial (useful, profitable, valuable) ・ 田 : [た] 【名詞】 1. rice field ・ 頓 : [とん, ひたすら] 1. (adj-na,adv) (uk) nothing but 2. earnestly 3. intently
益田 喜頓(ますだ きいとん、本名木村 一、1909年9月11日 - 1993年12月1日)は、日本の俳優。昭和期を代表するコメディアンである。芸名の「ますだきいとん」は三大喜劇王の一人、「バスター・キートン」のもじり。 ==来歴・人物== 1909年(明治42年)9月11日、北海道庁函館区青柳町(現在の北海道函館市青柳町)に、会津藩の武家上がりの土木請負業の家に生れる。裕福な家で育つが、幼少時事業が失敗し、父親が蒸発し、母兄弟とともに貧しい生活を送る。その頃から、バスター・キートンらが主役を演じるアメリカの短編喜劇の無声映画が好きになる。 1923年(大正12年)、北海道庁立函館商業学校(旧制、現在の北海道函館商業高等学校)に入学する。トルストイを愛読し、小説家を志す一方、野球部に入り頭角を現し、三塁手として活躍し、北海中学校(旧制、現在の北海高等学校)に引き抜かれる。卒業後、「函館太洋倶楽部」に入り、野球を続けるが、鈍足のため野球の道をあきらめる(当時の久慈次郎主将から当時設立したばかりのプロ野球に誘われている)。 1930年(昭和5年)、小樽の五十嵐財閥経営の貿易会社に入社し、同系列資本の札幌の「赤い風車レビュー団」を手伝っていたが、翌年解散したので、上京し、吉本興業(東京吉本)に入社し、「花月劇場」でショーに出演する。 1936年(昭和11年)、川田義雄、芝利英、坊屋三郎と「あきれたぼういず」を結成し、クラシック、ジャズから流行歌まで様々な替え歌やナンセンスギャグ、パロディなどで一世を風靡する。なお、芝利英(坊屋三郎の弟)とは中学の同級生。「あきれたぼういず」での益田の得意技はヨーデルであった。 1939年、一旦は新興キネマ演芸部の引き抜きに応じ同社に移籍するが、結局新興との契約を破棄し、「あきれたぼういず」を脱退する。第二次世界大戦中の1942年に、木村恵吾監督の『歌う狸御殿』に出演し、キートンばりの演技を披露した。「益田喜頓一座」を旗揚げするが大阪で連合国軍機の空襲にあい解散する。 戦後、1946年(昭和21年)に、坊屋三郎、山茶花究と「あきれたぼういず」を再結成するが、1951年に解散。その後、映画を中心に活躍する。 1957年(昭和32年)に、東宝演劇部に入り、ミュージカルにも積極的に出演し、特に『マイ・フェア・レディ』(1963年)のピカリング大佐役が知られる。また、『屋根の上のヴァイオリン弾き』は、1967年の初演以来907公演に司祭役で出演し、代表作となった。 1990年(平成2年)には半世紀以上住んでいた台東区西浅草を離れ、函館へ「永住帰郷」した。その後も舞台やテレビで活躍したものの、1993年(平成5年)12月1日、大腸癌のため、函館の病院で死去。84歳没。浅草寺境内の「喜劇人の碑」にその名を残す(2001年)。 筆まめで知られ、エッセイ集や短編小説集などといった著作も数多くある。おなじ浅草の喜劇人キドシンこと木戸新太郎は同郷・同窓で函館商業学校の7つ後輩に当たる。また夫人は同じ東京吉本所属の女優で、戦前の「吉本ショウ」の舞台で人気を博したミス花月。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「益田喜頓」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|