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益田宏美 : ミニ英和和英辞書
益田宏美[ますだ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [やく, えき]
  1. (n,n-suf,vs) gain 2. benefit 3. profit 4. use 5. advantage 6. being beneficial (useful, profitable, valuable)
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [び]
  1. (n,n-suf) beauty 

益田宏美 ( リダイレクト:岩崎宏美 ) : ウィキペディア日本語版
岩崎宏美[いわさき ひろみ]

岩崎 宏美(いわさき ひろみ、1958年11月12日 - )は、日本歌手である。愛称はヒロリン。
東京都江東区深川出身〔週刊朝日 1882年10月1日号、40、41ページ(本人のインタビューも含む記事)。〕。所属事務所芸映プロダクションから、後にスリー・ジーに移籍。レコード会社はビクターから、インペリアルレコードに移籍。岩崎良美は実妹。
== 略歴 ==
1958年11月12日木場で製材用の機械を製作する会社の経営者の次女として誕生した(三姉妹の次女)〔。歌手・女優の岩崎良美は3歳年下の実妹である。警察の師範も務めた父の影響で、幼い頃から姉妹で剣道をやっており、姉妹ともかなりの腕前を持っていることでも知られている。
成城学園初等学校入学と同時に歌のレッスンを受け、同中学校進学の後、歌手を目指し松田トシ(のちに芸名を「松田敏江」に改名)に師事。また当時中学の同級生だった岡村清太郎(当時歌舞伎役者。現在は浄瑠璃清元の家元、七世清元延寿太夫)の縁で先代水谷八重子の部屋子となり、新橋演舞場に通う。中学3年の時に『スター誕生!』に応募し、1974年2月20日(放映は3月3日)、関東大会で代表選出、同年7月17日(放映は8月11日)決戦大会に出場。小坂明子の「あなた」を歌い最優秀賞に輝く。8社からのプラカードがあがり〔同回で審査員特別賞を受賞した黒木真由美はその倍以上の18社からプラカードがあがった。また、他の出場者に水越けいこがいた(1社からもスカウトされず)。〕、芸映ビクターレコードと契約〔テレビ予選、決戦大会ともにVTRは現存していないが、決戦大会の模様は一部16mmフィルムで撮影され、木曜スペシャル『実録・スター誕生!1974』(1974年11月14日)にて放映された。フィルムの方は存在が確認されており、過去を振り返る番組で流されることも多い。〕。以後大本恭敬に師事し、現在の歌唱スタイルを築く。
「スター誕生」に応募した動機は、当時同い年の森昌子が「せんせい」でデビューしたのをテレビで目の当たりにし、「自分も森昌子さんみたいになりたい。」と思ったのがきっかけだと言われる。
1975年4月25日、「天まで響け岩崎宏美」のキャッチフレーズと共に「二重唱 (デュエット)」でデビューした。同期デビューの女性歌手では小川順子太田裕美岡田奈々片平なぎさなどがいる〔。2枚目の「ロマンス」が90万枚近い大ヒットとなり、「心のこり」の細川たかしと共にこの年の新人賞を多数受賞する。またこの年、第26回NHK紅白歌合戦に、紅組歌手のトップバッターとして初出場(歌唱曲は「ロマンス」)を果たした。
1976年3月、3枚目のシングル「センチメンタル」が第48回センバツ高校野球大会入場行進曲に初めて選ばれる。後に妹の良美も1986年に「青春」(テレビアニメタッチ」副主題歌)が第58回センバツ高校野球大会の入場行進曲に選出されており、姉妹で共に同大会入場行進曲に選ばれた唯一の歌手となっている。この頃は午前中高校で授業・午後からは芸能活動という日々で、都内の仕事場へはプロダクションの送迎車ではなく自力で電車移動していた。
1977年3月に堀越高等学校を卒業した。同期生には森昌子岡田奈々池上季実子などがいる。同年秋、初のバラード「思秋期」がヒットし第19回日本レコード大賞歌唱賞を受賞。1979年7月、中野サンプラザホールでロックミュージカル「ハムレット」にオフィーリア役で出演(ハムレット役は桑名正博)。
1982年、前年9月より放送が開始された日本テレビ系の2時間ドラマ『火曜サスペンス劇場』の主題歌を担当(「聖母たちのララバイ」)。この曲は発売後2週目でオリコンチャート週間売上1位を獲得し80万枚の大ヒットとなり、同年11月、日本歌謡大賞を受賞する。また翌1983年3月には同曲が、第55回センバツ高校野球大会の入場行進曲として再び採用された。楽曲に関して作曲は当初木森敏之とされたが、発売の2年前に公開された米映画『ファイナル・カウントダウン』のBGMの一つ「ミスター&ミセスタイドマン ''Mr. and Mrs. Tideman''」との類似性が指摘され、後に「木森敏之John Scott」と併記されることになる。この余波で、外国人作家が関係する曲は選考の対象外であったことから、この年の第24回日本レコード大賞ではノミネートに至らなかった。
なお、『火曜サスペンス劇場』では1981年9月から1987年11月までの6年間にわたって「聖母たちのララバイ」「家路」「」「25時の愛の歌」「夜のてのひら」の5曲が主題歌として採用された(その後も1992年10月から1993年9月にかけて「愛という名の勇気」が同番組の主題歌となっている)。
1984年、芸能活動の方針を巡る相違から芸映を退社し、個人事務所スリー・ジーを設立する。翌1985年、独立第1弾のシングル「決心/夢狩人」がトップ20入りし、アルバム『戯夜曼』も発表した。
1986年、ミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』に次女・ホーデル役で出演。同年10月21日外務省が中心となって進めている日本文化交流「ジャパン・ウイーク」がエジプトで開催され、そのメインイベントに親善大使として招かれピラミッドスフィンクスの前でコンサートを開く。このライブは同年ビデオ化され、2004年CD-BOX『HIROMI IWASAKI 30TH ANNIVERSARY BOX』でDVD化、また2007年にライブCD-BOX『ROYAL BOX 〜スーパー・ライブ・コレクション〜』でCD化されている。
1987年TBSテレビドラマ『男女7人秋物語』に出演し平均視聴率30%の大ヒットとなる。またミュージカル『レ・ミゼラブル』の日本初演でファンティーヌを演じ、以後も2011年(帝国劇場100周年記念公演)まで断続的に演じ続けている。
1988年、商社マン(実業家・益田孝の玄孫にあたる)と結婚し、横浜市港北区に新居を構える。芸名も夫の姓に合わせ益田宏美に改名した。その後1989年に長男を1992年に次男を出産。その間ドイツに住む時期があったが「その頃には既に夫婦仲が悪かった」と後の雑誌インタビューで答えていた。1995年に協議離婚が成立し、子どもの親権は夫側が、養育権は岩崎宏美側が得る。1996年に前夫が再婚した後、養育権も前夫が得て、前夫の後妻と2男が養子縁組する形で2男を引き取った。それに対し、前夫を提訴することを考えたが、「公判中は子供に一切面会させない」と通告を受け、提訴を断念〔女性セブン2013年9月5日号〕。その後、芸名を岩崎宏美に戻し歌手活動を本格的に再開。「子どもに対する面会権を行使し、子どもとはその後も2か月に1回のペースで会っている」とNHKの番組で述べていた。その後、2013年のTBSの番組では「子どもが成年に達し自由に会えるようになり、自身のコンサートイベントにも来てくれた」と語っている。
2001年テイチクのレーベル・インペリアルレコードに移籍する。同年声帯ポリープができ、手術を受けた。
2007年プラハチェコ・フィルハーモニー管弦楽団と共演し、ドヴォルザークホールにて収録したセルフカバー・アルバム『PRAHA』を発表する。
2008年4月、チェコ共和国の初代親善大使に任命される。
2008年5月16日、実妹・岩崎良美とジョイントコンサート(岩崎宏美・岩崎良美Precious Night プレシャスナイト、文京シビックホール)を行った。コンサートの模様はDVD化された。
2009年4月29日、俳優・今拓哉と結婚した。
2015年4月22日のテレビ番組『ノンストップ!』において、2001年からバセドー病橋本病を患っていることを明らかにした。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「岩崎宏美」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Hiromi Iwasaki 」があります。




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