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益田景祥 : ミニ英和和英辞書
益田景祥[ますだ かげよし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [やく, えき]
  1. (n,n-suf,vs) gain 2. benefit 3. profit 4. use 5. advantage 6. being beneficial (useful, profitable, valuable)
: [た]
 【名詞】 1. rice field 

益田景祥 : ウィキペディア日本語版
益田景祥[ますだ かげよし]
益田 景祥(ますだ かげよし、天正5年(1577年) - 寛永7年(1630年)7月13日)は、石見国国人益田氏武士毛利氏の重臣で問田益田氏の初代。
父は益田元祥、母は吉川元春の娘。正室は児玉元良の娘。再室は臼杵甚右衛門の娘〔大友宗麟の外孫。〕。兄弟に広兼吉川家澄就之就景。子は就固就貫。また娘は益田元堯室、阿曽沼就春室、児玉就信室、林就尚室、清水就信室らがいる。通称は七内、修理亮、河内守。官位は従五位下、諸大夫。号は道半。菩提寺は山口県山口市仁保下郷深野の玄答院
== 生涯 ==
天正5年(1577年)、毛利氏重臣益田元祥の二男として生まれる。生母は吉川元春の娘で、毛利元就の外孫にあたる。
はじめ筑前国の名族・宗像氏の養子となるが、兄の益田広兼が急死したため、父元祥に乞われて実家に戻る。
武人としての器量があったため小早川隆景に仕え、当時、若年ながら朝鮮出兵で活躍〔この時、豊臣秀吉から藤原定家の色紙と早舟の茶碗という高麗焼きを賜わっている。〕し隆景に軍功を称えられ偏諱を貰い景祥と名のる。隆景が武家清華家に列した時に、諸大夫成している。その死後、豊臣秀吉から筑前名島周辺1万石で隆景の養子である秀秋に仕えるように命じられたが苦慮の末、毛利輝元の直臣となった。関ヶ原の戦いの後、防長転封の時に父の元祥と共に奔走し、萩城の築城や萩藩の経済を立て直すなどの支配体制確立に功があった。
益田氏宗家は兄の子元堯が継いだため分家〔景祥の娘を甥の元堯に娶わせているが、これは景祥と元堯の関係を考慮してのことと推測される。〕して、はじめ周防右田で2,500石、長門江崎を経てのちに寛永2年(1625年)、周防国吉敷郡問田深野などで4,096石の知行を貰い、藩の寄組に列した。寛永7年(1630年)7月13日山口において死去。享年54。笠松山麓に葬られる。家督は嫡男の就固が継いだ。
なお、小早川隆景夫人が夫の死後景祥を頼り、問田に移り住んだことから問田大方と呼ばれる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「益田景祥」の詳細全文を読む




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