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盧光[ろ こう] 盧光(ろ こう、506年 - 567年)は、中国の北魏末から北周にかけての官僚・軍人。字は景仁。小字は伯。本貫は范陽郡涿県。 == 経歴 == 盧靖の子として生まれた。書物を広く読み、とくに三礼に詳しく、陰陽を得意とし、鐘律を解し、玄言を好んだ。北魏の孝昌初年、司空府参軍事を初任とした。後に明威将軍・員外侍郎に転じた。534年(永熙3年)、孝武帝が関中に入ると、盧光は山東で反高歓の起兵をおこない、大都督・晋州刺史・安西将軍・銀青光禄大夫に遙任された。 540年(大統6年)、長安に入った。宇文泰の礼遇を受け、丞相府記室参軍に任じられ、范陽県伯の爵位を受けた。まもなく行台郎中となり、書記をつとめた。544年(大統10年)、安息県伯に改封された。行台右丞に転じ、華州長史として出向した。長安に召還されて将作大匠に任じられた。552年(廃帝元年)、車騎大将軍・儀同三司の位を加えられ、京兆郡太守に任じられ、侍中に転じた。556年(恭帝3年)、六官が建てられると、小匠師下大夫に任じられた。後に開府儀同三司・匠師中大夫に進み、爵位を侯に進めた。さらに工部中大夫に転じた。559年(明帝3年)、賀蘭祥が吐谷渾を攻撃すると、盧光はその下で大司馬長史として従軍した。爵位を燕郡公に進めた。560年(武成2年)、宗廟の造営を監督した。虞州刺史として出向し、まもなく陝州総管府長史に転じた。567年(天和2年)、死去した。享年は62。少傅の位を追贈された。諡は簡といった。著に『道徳経章句』があり、当時に通行した。 子の盧賁が後を嗣いだ。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「盧光」の詳細全文を読む
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