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直仁親王(なおひとしんのう、建武2年(1335年) - 応永5年5月14日(1398年6月2日))は、南北朝時代の持明院統の皇族。花園天皇の皇子で、母は宣光門院正親町実子と伝わるが、実際は光厳天皇の皇子。北朝崇光天皇の皇太弟に立てられたが、正平一統の際に南朝方によって廃太子され吉野へ連れ去られた。花園上皇の御所だった「萩原殿」を相続したことから萩原宮(はぎわらみや)とも通称された。 == 経歴 == 本来、父の花園天皇は持明院統においては傍流であり、その皇位は嫡流である後伏見天皇-光厳天皇-崇光天皇の系統に引き継がれるものと考えられていたために親王は皇位継承に与れる立場にはなかった。ところが、正平3年(1348年)に元服すると光厳天皇の猶子として皇位継承権が与えられ、その年の10月27日に義兄にあたる崇光天皇の皇太子に立てられた。その理由は、興国4年4月13日(1343年5月7日)付で崇光天皇に向けて書かれた「光厳上皇宸翰置文」(鳩居堂蔵)でわかる。そこには、光厳上皇が直仁親王の実の父親であるとする告白し、崇光天皇の即位は一代限りで、以後は直仁親王の系列に皇位を譲るよう記されている。この置文は長らくその存在が秘され、研究者の間でもそのまま事実として受け入れられていなかった。しかし、多くの神仏の名にかけて誓約する真剣さや、信頼性の高い系図である「田中本帝系図」に直仁親王が光厳院第二皇子とされていることから、この内容は真実だと考えられる〔岩佐美代子『光厳院御集全釈』 風間書房、2000年。〕。光厳院は、大恩ある花園院に報いようとこうした行動に出たと推測される〔深津睦夫 『光厳天皇 をさまらぬ世のために身ぞうれはしき』 ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選131〉、2014年2月、pp.138-144。〕。 ところが、観応の擾乱の最中の正平6年(1351年)、室町幕府の征夷大将軍である足利尊氏が南朝の後村上天皇に降伏、これを受けて南朝軍が京都を制圧して北朝方皇族を拘禁した。11月7日(11月26日)、南朝によって崇光天皇の廃位が宣言された(正平一統)。ただし、南朝側との交渉にあたっていた洞院公賢は南朝の後村上天皇の皇太子として直仁を認めるように求めていたらしく、公賢の日記『園太暦』の同年12月15日(1352年1月2日)条には息子洞院実夏を光厳上皇の許に派遣して将来の直仁親王への継承実現の願書作成の相談を行い、2日後に執筆している。だが、正平7年(1352年)閏2月20日(4月5日)の南朝軍の京都占領と同時に北朝の東宮職が停止されており(『公卿補任』)、この時点で廃太子が行われたと考えられている。その翌21日、南朝軍は光厳・光明・崇光の3上皇と廃太子直仁親王を後村上天皇の行在所があった男山八幡宮に幽閉して、やがて尊氏と南朝が再度対立して南朝軍が京都からの撤退を余儀なくされると、彼らは南朝の本拠である大和国吉野に連行され、続いて賀名生(現在の奈良県五條市)に幽閉された。正平11年(1356年)に解放されて、翌年に京都に帰還するが、京都では既に崇光天皇の実弟である後光厳天皇が尊氏によって擁立された後であり、崇光天皇と皇太子直仁親王の復位要求は拒絶された。 直仁親王は失意のうちに出家して父の御所であった萩原殿に隠退し、南北朝合一後にこの世を去った。『本朝皇胤紹運録』には掲載されていないものの、『看聞日記』などの記事によって親王には周高西堂(応永26年8月13日没)と任西堂(永享3年没)の2皇子、尊立と称される1皇女が存在したのが知られている。だが、全員出家しておりその子孫は伝わっていない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「直仁親王」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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