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藤原 為光(ふじわら の ためみつ)は、平安時代中期の公卿。右大臣・藤原師輔の九男。法住寺を建立したことでも知られる。 == 生涯 == 天暦11年(957年)に従五位下に叙爵し、冷泉天皇即位とともに蔵人となる。以後、安和元年(968年)左中弁に任じられ、円融天皇即位とともに蔵人頭などを歴任した後、天禄元年(970年)参議となった。 異母兄の伊尹・兼通から可愛がられ、天延元年(973年)に先任参議6名を飛び越して権中納言に抜擢され、同時に従三位に叙せられる。天延3年(975年)に中納言となり、翌年に正三位に叙せられる。貞元2年(977年)には正二位大納言となり、兼通から疎んじられていた異母兄兼家を超え、大納言筆頭となる。だが、兼通の死後に兼家が右大臣に就任して再び為光を超えることとなり、兼家と将来の摂関の地位を争うこととなる。 花山天皇即位後、天皇の要望を受けて娘・忯子を入内させた。忯子は天皇の寵愛を受け、父親である為光も内給所を任されるなど、外戚で為光の義弟・婿でもある義懐と並んで重きをなした。だが、忯子の急死と花山天皇の出家、続く一条天皇の即位とその外祖父・兼家の摂政就任によって、為光の野心は挫折することになる。だが、兼家は左大臣源雅信に対抗するために為光との連携を図り、寛和2年(986年)右大臣に任じられて、翌987年(寛和3年)には従一位に叙せられた。その一方で、これによって為光は兼家・道隆親子の風下に立つことになった。正暦2年(991年)に道隆の推挙で太政大臣に任じられたが、翌正暦3年(992年)に薨去した。死後、正一位が贈られ、相模国を封じられた。邸宅の一条院は姪の詮子に相続された。 日記に『法住寺相国記』がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原為光」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Fujiwara no Tamemitsu 」があります。 スポンサード リンク
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