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相羽 欣厚(あいば よしひろ、1943年12月8日 - 1988年1月29日〔プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、3ページ〕)は愛知県大府市出身のプロ野球選手(外野手)。 == 来歴・人物 == 中京商業では1961年、3年生の時に春夏連続で甲子園に出場。春の選抜は遊撃手として出場、1回戦で小倉工に惜敗〔「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年〕。夏の選手権は中堅手に回る。準々決勝に進むが、この大会に優勝した浪商のエース尾崎行雄らに抑えられ、完封負けを喫する〔「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年〕。秋の秋田国体では決勝で報徳学園を下し、優勝を飾った。高校同期に山中巽、江藤省三、1年下に林俊彦、木俣達彦がいた。 1962年に読売ジャイアンツへ入団。1年目から一軍に上がるが、レギュラーには届かなかった。外野の控えや代打を中心に起用されたが、1965年には31試合、1967年には30試合に先発出場している。1965年の日本シリーズでは第1戦、第2戦に左翼手、二番打者で先発するが1安打と結果を残せなかった、 1964年6月17日の中日ドラゴンズ戦に左翼手として出場していた際、ジム・マーシャルの大飛球をジャンプして取ろうとした直前レフトスタンドのファンが身を乗り出してこのボールを取ってしまった際に左翼外審は「ファンがボールを取らなければ捕球できた」と判断しアウトを宣告したという「幻のホームラン事件」に関わっている〔。また1965年に4試合四番打者をつとめたことがあり、読売ジャイアンツの第31代四番として記録に残っている〔。 1973年には南海ホークスに移籍。主に左翼手として片平晋作、ウィリー・スミスとの併用ながら54試合に先発出場。規定打席には足りなかったが打率.287と自己最高の成績をあげた。1974年オフに村上雅則と共に、和田徹と野上俊夫との交換トレードで、阪神タイガースへ移籍。左投手に滅法強かった事から、安田猛・松本幸行対策として採用された。1975年限りで引退。 引退後は、阪神で二軍打撃コーチ(1976年 - 1981年)・二軍チーフコーチ(1982年)・一軍外野守備コーチ(1983年)・一軍内野守備コーチ(1984年)として9年、日本ハムファイターズで一軍打撃コーチ(1985年 - 1986年)を2年務め、多くの若手野手を育てた。 1988年1月29日、膵臓癌で他界した。享年44〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「相羽欣厚」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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