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相良 晴広(さがら はるひろ)は、肥後の戦国大名。相良氏の第17代当主。第16代当主相良義滋の養嗣子で、実父は上村頼興〔上村氏の第13代当主。〕。初名は頼重(よりしげ)。何度かの改名を経て、晴広としたのは将軍足利義晴からの偏諱による。 == 生涯 == ===世子時代=== 永正10年(1513年)、上村頼興の長男、籐五郎頼重として上村城(麓城)で生まれた。 上村氏は相良氏初代当主相良長頼の四男の頼村を祖とする分家であったが、曽祖父上村直頼の室は第12代当主為続の姉で、さらに祖父上村頼廉は為続の三男が直頼の養子となったもので、母は直頼の弟上村長国の娘であった。実父頼興と、養父義滋(長唯)およびその異母弟(長祗、長隆)とは、従兄弟の関係にあたる。 大永4年(1524年)に相良長定と犬童長広が謀反を起こし第14代当主長祗を放逐して家督を奪い、大永6年(1526年)、瑞堅(長隆)が兵を起してこの長定と長広を追放したが、相良氏の家臣団は還俗した長隆の家督相続を容認せず、第13代当主長毎の庶長子長唯(義滋)を推戴して、さらに内紛が続いた。 前述のように宗家に匹敵する家柄を持つ上村氏は、家中で大きな影響力を持っていたが、当主の頼興は相良宗家の兄弟爭いに対して中立の立場をとって、長唯の先陣の要請を拒否していた。しかし、長唯は戦略上重要な上村城を味方につけるために、(自分に後継者となる男子がいなかったこともあって)頼興の長男頼重を相良宗家の養嗣子として迎えるという条件で、頼興の協力を取り付け、弟長隆を討ち果たした。 享禄3年(1530年)、約束を守った長唯は頼重を養子とし、18歳の頼重は名を「長為〔「長為」は養父・相良義滋の初名と同じ。〕」と改めて宗家の世子となった。 天文4年(1536年)4月8日、頼興は、長為の将来を案じて、家中で信頼の厚い実弟の長種を暗殺させた。また同年5月18日、頼興は、名和氏(伯耆氏とも言う)に使者を遣わして名和武顕の娘と長為との政略結婚をまとめた。これは翌年12月22日に入輿の儀となった。なお、これより少し前の同年11月22日、長為は洞然(外祖父上村長国の号)に教えを請い、相良家の事績や家督継承者としての心得等を記した『洞然長状』を送られている。 天文6年(1538年)12月14日、長為は名を「為清」と再び改めた。 天文7年(1538年)4月13日、薩摩守護島津貴久が佐敷に来て、長唯・為清親子の饗応を受けた。貴久は伊作家・相州家から島津勝久の養子となって島津宗家(奥州家)を継いだが、薩州家の島津実久がこれに反対して乱を起こしていた。相良氏の勢力範囲はこの実久の勢力範囲の背後(北)に位置するため、協力を要請したものと思われる。実久は天草郡の天草尚種とも争乱を起しており、義滋が間に入って調停している。 天文11年(1542年)6月15日、為清は正室名和氏(伯耆氏)と離縁した。理由などはわかっていない〔政略結婚であるので個人的な夫婦間のいざこざが理由とは考え難く、名和武顕が阿蘇惟豊に接近したことと関係があると思われ、誓約で取り交わした人質を家に帰す意味があったものと推測される。〕が、名和氏との盟約(三家同盟)は破れ、天文12年(1543年)1月26日、名和勢が小川に侵攻し、相良勢も兵を出して交戦して、高山でこれを撃退した。しかし阿蘇惟前は堅志田城を追われて八代に逃れた。相良氏・名和氏・阿蘇氏は、阿蘇氏の同盟相手を阿蘇惟前から阿蘇惟豊に代えて、天文14年に再び和睦した。 天文14年(1545年)11月27日、大内氏の仲介〔義滋は、海外貿易と関連して、幕府の渡船奉行で日明貿易を独占する大内義隆と連携していた。義隆から義滋に対して貿易船の警護を命じる書状が残っている。義隆は京都では〕により、大外記大宮伊治が勅使および室町将軍の使者として八代に来航。12月2日、勅使は長唯を従五位下・宮内大輔を、為清を従五位下・右兵衛佐にそれぞれ叙した。またこの時、将軍足利義晴が一字拝領を許した旨も告げられ、長唯は「義」の字を与えられて義滋と、為清(長為)は「晴」の字を与えられて「晴広」とそれぞれ称することになった〔『南藤蔓綿録』によると、12月2日の一字拝領の際には「義広」と称し、同月26日に「晴広」と改めてたとしている。〕。 天文15年(1546年)8月3日、義滋は隠居して家督を晴広に譲った。相良氏が長く内紛に苦しんだ教訓から、義滋は家督相続の事実を内外に広く伝聞して、周知徹底させた。同月25日、義滋は遺書を残して他界した。また同年10月20日に祖父上村長国も死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「相良晴広」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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