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相良 義陽(さがら よしひ / よしはる〔池田こういち著『肥後相良一族』(新人物往来社、2005年)ISBN 4404032536では、『「よしひ」或いは「よしてる」とも』としている。〕)は、肥後の戦国大名。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。相良氏の第18代当主。初名は頼房で、将軍・足利義輝の偏諱を受けて義陽とした。 == 生涯 == === 幼少時 === 天文13年(1544年)、相良晴広の嫡男として木上村上田の館〔母の実家。〕で生まれた。幼名は万満丸(萬満丸)と言う。天文18年(1549年)8月、同年同日生まれの庶弟・徳千代(頼貞)を候補から除外して家督争いを避けるべきという老臣の勧めで、晴広は相良氏宗家の世子は万満丸であると公に定めた。 弘治元年(1555年)8月12日に父晴広が死去し、12歳にして家督を継承して人吉城主となった。幼少であったこともあるが、もともと父の時代にも強い影響力を持った外祖父の上村頼興が実権を引き続き握った。頼興は晴広に代って鷹峯城(八代城)に入って輔佐することになった。 同年9月26日、天草尚種が使いを送ってきて、長島鎮真が出奔して相良氏の領地となっていた長島に、尚種の弟を入れて、相良氏か長島氏を名乗らせたいと希望してきたが、万満丸はこれを拒否し、球磨の奉行と協議して、肥後守護で2年後には九州探題の地位にも就く豊後の大友義鎮に裁決を委ねることにした。結果的には天草尚種の願いが叶い、堂崎城には天草越前正(越前守)が入ることになった。 弘治2年(1556年)正月18日、阿蘇氏に外交僧を派遣して和を請うた。阿蘇氏とは菊池義武の騒乱の後から緊張状態のままで、これは上村頼興が若年の主君を奉じて戦う不利を感じて和議を進めようとしたものである。2月9日、万満丸が元服し、初名を頼房(よりふさ)と名乗り、通称を四郎太郎とした。 同年6月27日、娑婆神峠で阿蘇氏と宇土氏(名和氏)と相良氏の老臣が会合を持った。同じ月の29日、天草の栖本氏の上津浦を攻めたので、頼房は佐敷より兵を出してこれを防がせ、さらに後田浦の兵を後詰とした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「相良義陽」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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