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相良 義滋(さがら よししげ)は、肥後の戦国大名。相良氏の第16代当主。第13代当主相良長毎の庶長子で、第14代当主長祗は異母弟。初名を長為(ながため)、通称を左兵衛尉としたが、後に長唯(ながただ)と改名し、近江守を称した。義滋を名乗るのは最晩年であり、相良長唯の名をより長く用いた。 == 生涯== ===家督相続=== 延徳元年(1489年)、人吉城で生まれた。永正9年(1512年)、父長毎は隠居して嫡子の長祗に家督を譲った。長唯(義滋)は長祗よりも年長であったが、庶子であって宗家を継ぐ立場にはなかった。またもう一人の庶弟瑞堅(長隆)は、同様の理由の他にすでに出家していたという事情もあった。 一方で、第11代当主相良長続の長子頼金の子長定(義滋からは従叔父にあたる)も、嫡流の身でありながら没落の憂き目を見て不満を抱えていた。永正15年(1518年)、隠居後も実権を振るっていた長毎が亡くなり、若年の長祗が親政をするようになると、しばらくして家中の不満が表面化した。 大永4年(1524年)8月24日、長定が奉行犬童長広と謀って人吉城を襲った。長祗を薩摩国出水に放逐して家督を奪い、さらに翌年(1525年)には水俣城で誘殺しせんと謀って、長祗を自害に追い込んでその首を取った。(犬童の乱) 相良氏一族と家臣団では、これを簒奪として非難し、長定には従わぬという者が多くあり、彼らは協議して、長毎の庶長子である長唯を奉じることを決めた。 大永6年(1526年)5月11日 、長定非難の急先鋒であった庶弟・瑞堅が、僧兵200名余で人吉城を襲い、長定・長広ら一派を追い落として城を掌握した。瑞堅は俄かに権力欲に駆られて、翌日、還俗して「長隆」と名乗り、自らが家督を相続する意思を示したが、群臣は従わず、3日後に城を出て上村に落ち延び、永里城(あさぎり町上南字永里)に立て籠もった。 人吉の群臣は生かしておけば必ず禍根になると進言し、すぐに追手を差し向けて討伐するように長唯を説得。長唯は、近在の上村城(麓城とも言う。あさぎり町上西字麓)主で、相良氏一族の実力者の上村頼興に先鋒を依頼したが、宗家の権威は弱く、兄弟爭いに巻き込まれるのを嫌ってこれを断ってきた。上村城は永里城の背後にあり、戦略上重要であるため、長唯は重ねて交渉し、「頼興の息子上村籐五郎頼重(後の晴広)を養嗣子にする」と約束して加勢を取り付けた。 5月15日 、長唯は外戚の豊永氏(原田の地頭)の手勢を率いて上村永里に出陣。頼興は(搦め手にあたる)麓諏訪山や権現山に兵を寄せ、長隆を完全に包囲した。翌16日、永里城を強襲して落とした。長隆は金蔵院に逃れ、寺に火を放ち、切腹して果てた。 5月18日、 長唯は人吉城に凱旋して、晴れて家督を相続した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「相良義滋」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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