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相良 頼房(さがら よりふさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。相良氏の第20代当主で、肥後人吉藩の初代藩主。頼房は初名で、晩年である元和2年に長毎(ながつね)と改名したので、先祖と同名の相良長毎が実名であるが、区別のために項目名は頼房としている。また父の義陽も初名は頼房であった。 == 生涯 == === 家督相続 === 天正2年(1574年)5月4日、相良義陽の次男長寿丸として生まれた。生母は相良氏初代長頼の六男頼員の孫である頼元を祖とする支流豊永氏の出であった。義陽の代より相良氏は(宿敵であった)島津氏の支配下にあった。 天正9年(1581年)に響野原の戦いで父義陽が戦死すると、10歳の兄の亀千代が家督を継ぎ、家臣の深水宗方と犬童休矣がこれを輔佐することになった。両人は協議してこの難局を切り抜けるために義陽の他の一子を島津義久に人質として出すことで家の安泰を図ろうと考え、井口八幡神社で籤をして8歳の長寿丸が吉を得た。亀千代は元服して四郎太郎、長寿丸は元服して四郎次郎という通称を名乗り、義久に四郎次郎が人質として薩摩に入ることを願い出ると、義久は喜び、改めて四郎太郎に島津家先祖の忠の字を偏諱として与え、忠房と名乗らせた。 翌年、四郎次郎は兄より頼房の名を賜り、人質として薩摩国出水に送られた。しかし天正13年(1585年)2月、忠房が急逝したため、弟の藤千代(長誠)と人質を代わって、12歳で家督を継承した。 以後も島津氏に従うが、大友氏攻め従軍が命じられ、8月10日、島津義弘の配下として、家臣の深水宗方、犬童休矣と頼兄親子が若い主君に代わって球磨の兵を率いた。御船で(大友側の)阿蘇勢と戦った後、10月、日向道から豊後国に侵攻する島津義久・島津義弘の軍勢に加わった。天正14年(1586年)1月、高森城攻囲戦に参加。この戦いで深水宗方は一子の深水摂津介を失った。球磨勢は隈府城に駐屯し、島津勢が肥後国を席巻するのを助けた。さらに筑後・筑前への攻撃にも球磨勢は加わった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「相良頼房」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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