|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 相 : [そう] 【名詞】 1. aspect 2. phase 3. countenance ・ 馬 : [うま] 【名詞】 1. (1) horse 2. (2) promoted bishop (shogi) ・ 野 : [の] 【名詞】 1. field ・ 野馬 : [のうま] (n) wild horse ・ 馬追い : [うまおい] 【名詞】 1. loading a horse with passengers or baggage 2. driving a horse into a pen 3. katydid
相馬野馬追(そうまのまおい)は、福島県相馬市中村地区を初めとする同県浜通り北部(旧相馬氏領。藩政下では中村藩)で行われる相馬中村神社、相馬太田神社、相馬小高神社の三つの妙見社の祭礼である。馬を追う野馬懸、南相馬市原町区に所在する雲雀ヶ原祭場地において行われる甲冑競馬と神旗争奪戦、街を騎馬武者が行進するお行列などの神事からなる。これらの神事に関しては1952年、国の重要無形民俗文化財に指定されている。 東北地方の夏祭りのさきがけと見なされ、東北六大祭りの1つとして紹介される場合もある。 2010年までは、毎年7月23日から25日までの3日間の日程で神事と祭りが一体となって開催されていたが、2011年からは祭りと神事は日程が分離され、祭りを7月最終週の土曜日開幕、神事を24日・25日に日程を固定して実施することが決まった〔相馬野馬追 来年から週末開催 45年ぶりに日程変更 (河北新報 2010年12月26日)〕。2011年以後の詳細は東日本大震災と福島原発事故により不明な点が多いため、以下には2010年までの日程等に基づいて記載する。 == 歴史 == 起源は、鎌倉開府前に、相馬氏の遠祖である平将門〔江戸時代初期には将門の子孫が相馬氏であるという伝承が確かに存在している。徳川幕府に仕えて旗本となった惣領家(本家)の下総相馬氏・政胤の代の『御家伝書』を1622年秋、相馬則胤が書写したものにある(岡田清一:著)。〕が、領内の下総国相馬郡小金原(現在の千葉県松戸市)に野生馬を放し、敵兵に見立てて軍事訓練をした事に始まると言われている〔。鎌倉幕府成立後はこういった軍事訓練が一切取り締まられたが、この相馬野馬追はあくまで神事という名目でまかり通ったため、脈々と続けられた。 1868年の戊辰戦争で中村藩が明治政府に敗北して消滅すると、1872年に旧中村藩内の野馬がすべて狩り獲られてしまい、野馬追も消滅した。しかし、原町の相馬太田神社が中心となって野馬追祭の再興を図り、1878年には内務省の許可が得られて野馬追が復活した。祭りのハイライトの甲冑競馬および神旗争奪戦は、戊辰戦争後の祭事である。 相馬氏は将門の伝統を継承し、捕えた馬を神への捧げ物として、相馬氏の守護神である「妙見大菩薩」に奉納した。〔妙見大菩薩は神仏習合で天之御中主神と同一視された為、神仏分離が明治時代に行われてからは妙見大菩薩ではなく天之御中主神に奉納している。〕これが現在「野馬懸」に継承されている。この祭の時に流れる民謡『相馬流れ山』は、中村相馬氏の祖である相馬重胤が住んでいた下総国葛飾郡流山郷〔中世には相馬御厨という荘園に属した。〕(現在の千葉県流山市)に因んでいる。 戊辰戦争後の祭りおよび神事の初日は、1872年(当初は太田神社のみの小規模な祭礼)以降、旧暦5月の申日に合わせて7月1日、1904年以降、天候不順を回避するために7月11日、1960年以降、さらに梅雨期そのものを避けるために7月17日と変遷してきたが、1966年からは小学校の夏休み開始に合わせて7月23日となっていた〔相馬の野馬追 p24 相馬野馬追保存会(1985年発行)〕〔。2011年から神事と祭りは日程が分離されることになり、神事は24日・25日に日にち固定で実施し、祭りは7月最終週の土曜日に開幕することになった〔。ただし、7月最終週の土曜日に開幕すると8月上旬にまで日程が及ぶ場合は、祭りを前週に繰り上げて開催する〔。 500余騎を集める行事は2012年現在、国内では唯一である。馬は一部の旧中村藩士族の農家、相馬中村神社や野馬追参加者により飼育されてはおるものの、多くは関東圏からのレンタルによって集められている。 なお、2011年に開始された「東北六魂祭」では、この相馬野馬追の紹介は被災地の伝統行事であるにもかかわらずまだ行われていない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「相馬野馬追」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|