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真木 花藻(まき はなも、? - 永禄12年(1569年))は、三河国宝飯郡の16世紀の女性。「華藻」とも書く。両親の姓名は不詳。越後長岡藩主牧野氏・信濃国小諸藩主牧野氏の上級家臣であった槙氏・真木氏の先祖の一族。 牛久保城に仕えていた女中。夫の死を悲しみ井戸に身を投げて、自害したことで、愛知県豊川市の郷土史に有名な人物である。 ==概要== 牛窪記によると、花藻・忍の2人の美しい女中が牛久保城に居たと云うが、牛久保古城であった可能性が高い(詳細は牛久保城を参照のこと)。牛久保城は、愛知県豊川市のJR牛久保駅近くにあった。 花藻は、牛久保城主・牧野出羽守保成の給仕の女中であったが、真木又次郎と恋に落ちて、牛久保城下の観音堂の縁日に人混みに紛れて、2人で出奔・駆け落ちをした。 この観音堂の観世音菩薩は、奈良県桜井市の古刹・真言宗豊山派総本山長谷寺・本尊の観世音菩薩と同木で作られたもので、真木宗成が、三河・牛久保に持ち帰ったものである。御利益が高いとされ、かつて牧野家の守本尊の一つであったとされる。 この観音堂は、現存していないが、仏像は、豊川市の長谷寺にいまも安置されている。手の部分が壊れて、原型を充分にとどめない形で、修復がなされているため、文化財的な価値は高くない。 永禄6年(1563年)3月・牧野出羽守保成は、駿府の戦国大名・今川氏のため、徳川家康と合戦に及び敗れて切腹した(異に討ち死にしたとあり)。真木又次郎と、花藻の帰参の子細は、明らかでないが、牛久保城主は、今川派の牧野出羽守保成から、徳川派の牧野成定・康成に交代していた。真木又次郎は、永禄12年(1569年)11月に、遠江国浜名郡に、一向一揆鎮圧のために山本帯刀等と共に、出陣したが籠所の兵に、不意に襲われて深手を負った。親友の岩瀬林之助に介助されて、辛うじて帰陣したが、まもなく戦傷死した。花藻は、これを見て、井戸に投身自殺を図った。牛窪密談記は、このときの花藻の様子を「狂人のようになりて」と、著述している。この恋愛物語は、牛窪記に詳述されている。 花藻が自害した井戸は、長く古井戸と呼ばれて、江戸時代には、小字(コアザ)として、地名となっていた。古井戸の所在は、現在の豊川市金屋橋町北部であり、その井戸そのものは、豊川市役所の西側にあったと云う。2人の墓地は、三河国宝飯郡誌や、牛窪記には、一本松にあったとされるが、愛知県営牛久保住宅の造成のため、改葬された(以上、真木氏末裔及び、地元古老からの聞き取り、喜多むめ所蔵文書)。 真木又次郎・花藻そして、岩瀬林之助・忍(林之助が妻)の四柱を祀った施設として、能仁堂がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「真木花藻」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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