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真田 信安(さなだ のぶやす)は、江戸時代中期の大名。信濃松代藩の第5代藩主。第4代藩主・真田信弘の三男(四男とも)。 == 生涯 == 兄・幸詮の早世により松代藩嫡子となり、元文2年(1737年)に父で前藩主の信弘の跡を継いだ。松代藩ではこの頃、家老や家臣たちが不正を働いて財政は極度に悪化していた。寛延3年(1750年)には家臣がサボタージュを企てるという事件が発生するまでに至っていた。このような中、信安は勝手掛(財政担当官)に田村半右衛門という人物を登用して藩財政改革に取りかかった。 この田村半右衛門は、播磨赤穂藩浅野家の家老だった大野知房の子・大野群右衛門だったとも言われる。半右衛門はまず、それまで不正を行なっていた家老や役人に対して、その罪の代償として御用金を何年かけても支払わせるようにした。次に、百姓に対し、100石ごとに籾15俵を増税として課した。これに百姓らの不満は高まった。不正を行なった家老や家臣たちは、御用金のみが課せられ、それ以上の罰は与えられなかった。一方で咎のない百姓にも重い負担が課せられたのである。この結果、松代藩は4700両の蓄えができた。しかし、百姓の怒りがおさまらず、宝暦元年(1751年)には百姓一揆が発生する。信安もここに至って遂に半右衛門を罷免して投獄し、獄死に追い込んだ。これを「田村騒動」という。 この騒動に失意を覚えた信安は、宝暦2年(1752年)に長男の幸弘に家督を譲っている。同年に39歳で死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「真田信安」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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