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真田 幸貫(さなだ ゆきつら)は、江戸時代の大名、老中。信濃松代藩の第8代藩主。徳川吉宗の曾孫に当たる。老中として天保の改革の一翼を担ったほか、藩政改革にも多くの成果を上げた。江戸時代後期における名君の一人として評価されている。 == 生涯 == 寛政3年(1791年)9月2日、老中首座として寛政の改革を主導した松平定信の長男として白河藩の江戸藩邸で生まれる。ただし、庶子であるために公的には次男とされた。文化12年(1815年)、松代藩7代藩主・真田幸専の養嗣子となった。翌文化13年(1816年)には真田幸善と名乗り、先々代の幸弘の娘が遠州浜松藩主・井上正甫に嫁いで生んだ雅姫を正室とした。 文政6年(1823年)の幸専の隠居により家督を継ぎ、藩政を担当する。天保の改革が始まると水野忠邦によって外様席から譜代席に移され〔『長野県史 通史編 第6巻 近世3』〕、老中に抜擢されて改革の一翼を担った。藩政においても佐久間象山をはじめとする有能な人材を多く登用して洋学の研究に当たらせ、幕末における人材の育成を行った。また殖産興業、産業開発、文武奨励などにも努め、藩校としては文武学校開設の基礎を築いている。 1832年(天保3年)には産物会所を設置した(明治2年に松代商法社に改める)。また文人としても優れ、画や和歌に秀逸は作品を数多く残した。しかし晩年には藩政改革の路線を巡る対立から重臣達による内紛を招き、これが幕末まで尾を引いた。 弘化4年(1847年)3月24日には善光寺地震が発生し、松代藩領内でも大きな被害が生じた。幸貫が御用番牧野忠雅に宛てた報告書や、月番家老河原綱徳の手記『むしくら日記』は被害状況を知る上で貴重な記録となっている。 江戸在府中には府内をお忍びで歩くことを好んだという。真田氏への養子入りの話が出た折には浪人姿になって松代藩の隅々を見聞して回ったともいうが、こちらは伝説の域を出ない。 幸貫は正室・雅姫との間には4男5女を儲けたが、いずれも夭折・早世した。そこで真田氏の血脈を求め、幸専の妹が肥前島原藩主・松平忠馮に嫁いで生んだ十男・幸忠を養嗣子に迎えたが、これも数え15歳で早世する。幸貫には実子として幸良がいたが、真田家に養子入りする前年に生まれたため、幕府には実父・定信の末子と届け出ていた。そこで廻り廻ってこの実子を養嗣子として迎え入れたが、数え30歳で先立たれたため、その長男・幸教が嫡子となった。嘉永5年(1852年)5月6日、幸貫は隠居して孫の幸教に家督を譲ると、6月8日に62歳で死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「真田幸貫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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