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真里谷城(まりやつじょう/まりがやつじょう)は、現在の千葉県木更津市真里谷にあった日本の城(山城)である。真里谷城址は房総丘陵の山中の周囲の峰々と比較しても高い位置(海抜161m)にあり、現在、木更津市立少年自然の家(キャンプ場)として利用されている。 上総武田氏の祖武田信長が築城したとされており、真里谷城と庁南城(長南町)を拠点として上総国一帯に勢力を広げ、真里谷武田氏の政治・軍事的拠点としての役割を果たすが、1590年の小田原征伐の際に廃城となる。 == 歴史・沿革 == 1456年(康正2年)当時上総国は上杉政憲の支配地であったとされ、これを敵視する古河公方足利成氏の命を受けた武田信長が上総国に進出する。信長は上総国進出の足がかりとして真里谷城と庁南城と併せて築城する。上総武田氏は真里谷城と庁南城を本拠地とし、下総国に対する備えとして椎津城、佐是城を、小櫃川流域支配のために中尾城、笹子城、久留里城、南部の里見氏に対する備えとして佐貫城、造海城といった支城を拡げていき、上総経営に着手していく。 その後、武田信長の孫の中でも真里谷城に本拠地を構える武田信興から姓を「真里谷」に改める。真里谷氏は真里谷信興から信勝、信清の3代の間に最盛期を迎え、真里谷信清(入道恕鑑)の代には対立する原氏が拠る小弓城を攻略し、足利義明を迎えて(小弓公方)、信清自身は「房総管領」を称するようになる。 真里谷信興から数えて4代目真里谷信隆の代に異母弟真里谷信応との間で内争が発生する。信隆の父である信清から家督を継いだのは庶子の信隆であったのだが、それからまもなく信清の正室が信応を生んだことにより家臣を巻き込んだ後継者問題が発生する。「嫡子である信応が家督を継ぐのが正当である」と考えた信応派の家臣は足利義明、一族の有力者である真里谷全方の支持を得て、信隆から家督を奪う事に成功し、真里谷城に入城する。家督を奪われた信隆は北条氏綱庇護の下、椎津城に逃れた後、武蔵国金沢に逃れる。1538年(天文7年)の第一次国府台合戦の結果、小弓公方方は敗北したことにより信応は失脚し信隆がふたたび真里谷氏当主に返り咲くが、一族の争乱を収める事が出来ず北条氏に臣従するような状況となり、真里谷氏は上総地方の支配力を失う。この一連の事件を契機に真里谷氏の拠点が真里谷城から椎津城に移ったとされている。〔椎津城に本拠地を移した意図として、まだ信応が健在で依然として在城していたこと、北条氏との関係を強固にするために房総丘陵の奥まった位置よりも連絡の取りやすい椎津城を選択したことによる。これにより真里谷城は本拠地としての役割を無くし、一族の拠る支城となる(『真里谷城跡』頁204 伊禮正雄による総括より)〕以降、上総国は後北条氏と里見氏の係争地となる。 1590年(天正18年)小田原征伐にて真里谷城は豊臣勢に攻められ落城し、廃城となる。〔川名登などによると、天文21年(1552年)頃に既に廃城となっていたという見解もある。〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「真里谷城」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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