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眞鍋 嘉一郎(まなべ かいちろう、1878年(明治11年)8月8日 - 1941年(昭和16年)12月29日)は明治後期から昭和初期の医学者、日本における物理療法(理学療法)、レントゲン学、温泉療法の先駆者。従弟に難波江通泰がいる。 == 人物・来歴 == 愛媛県新居郡大町村(現西条市大町)に生まれる。 西条高等小学校、愛媛県尋常中学校(現松山東高)に学ぶ。中学の教員に夏目漱石、同級生に松根東洋城がいた。1896年(明治29年)中学卒業、第一高等学校(現東京大学教養学部)進学。5歳で父を亡くし家計は苦しかったが、小学校より大学卒業まで一貫して首席であったといわれ、特待生として勉学を続けることができた。 1900年(明治33年)、東京帝国大学医科大学(現東京大学医学部)に入学、青山胤通教授のもとで内科学を専攻、ベルツらの薫陶を受ける。1904年(明治37年)卒業。この頃福島県・飯坂温泉、兵庫県・城崎温泉の放射能を測定し、飯坂温泉にて日本ではじめてラジウムの存在を確認、「飯坂」の名は世界的に知られることとなった。 1907年(明治40年)、東京帝大医科大学助手。 1908年(明治41年)、東京帝大医科大学院に入学。 1911年(明治44年)から3年間ドイツに留学して物理療法(理学療法)を研究。野口英世の知遇を得る。 1914年(大正3年)、東京帝大医科大学講師。 1915年(大正4年)、青山が北里柴三郎から奪ったといわれる伝染病研究所の技師となる。 1918年(大正7年)、新設の物理療法研究所主任となり、内科治療にエックス線、ラジウム鉱泉、電気などを導入。「レントゲン」の呼称を初めて使用し定着させた。 1926年(大正15年)、東大・青山内科を稲田龍吉が継ぎ、眞鍋は内科物理療法学講座(物療内科)を開いて、学生時代長与又郎、島薗順次郎をしのぐ秀才といわれながら「不遇をもって鳴る大家」だった十年講師がついに教授となる。 東大教授でありながら学位より臨床に重きを置く眞鍋のもとを、多くの患者が診察に訪れた。また、中学で漱石に学んだ21年後、長与らと漱石の臨終に立ち会ったほか、大正天皇、浜口雄幸など数々の著名人の主治医も務めた。物療内科開設は幅広い人脈と有力な資金源とに支えられたといっても過言でない。 日本内科学会会頭、日本医学放射線学会初代会長を歴任。 1941年(昭和16年)、ガンで死去。享年64。 後任の教授は三沢敬義。 == エピソード == *中学時代から秀才の呼び声高かった眞鍋は、生徒の先頭に立って教師に意地の悪い質問をぶつけるため、教師の側も「そんな重箱の隅をほじくるようなことをしていては書物は読めない」、「その質問は後回しだ」などともてあますことが多かった。しかし級長をしていた5年生のとき、新任の英語教師・夏目金之助(漱石)に、十分に下準備をしてきた眞鍋が「先生の訳は間違っています」と二つの理由を挙げて得々と指摘したところ、漱石はこともなげに「君のいう一つは辞書の誤りであり、一つは著者の誤りだ。二つとも本を訂正しておくように」といって講義を進めた。さすがの眞鍋も立往生し返す言葉がなかったという。また眞鍋は当時を振り返り、含蓄のある漱石の授業ぶりに強く感化されたと述べている。そのほか、漱石の布団にバッタを入れた張本人という話もある。ちなみに中学での漱石の給与は校長よりも高かった。 *大正〜昭和期のエスタブリッシュメント(支配層)にはよく見られるタイプであるが、眞鍋も“努力”に絶対的価値を置いていた人物である。とりわけ努力量というものにこだわっており、「人一度(ひとたび)すば、我十度(じったび)す。人十度すば我百度(ひゃくたび)す」(中庸の引用と思われ、劍法秘訣(北辰一刀流開祖 千葉周作 述)や少林寺拳法の教えにもある)が座右の銘であった。 *直情径行の頑固教授として知られ、「わしの論文を審査できる教授は東大にはおらん」と博士論文を提出せず、東大教授でありながら博士号を持たない最初の例となった。 *塩谷信男が東大物療内科の医局にいたころ、患者を手かざしで治療したことに激怒、塩谷を東大から追い出した。後に臨床医としての塩谷の手腕を評価している。 *1930年(昭和5年)11月14日、東京駅頭にて浜口雄幸首相が銃撃され、眞鍋が主治医として治療にあたった。容態は「おならが出るか否かが生死の分かれ目」。狙撃から3日後の未明、泊まり込んで浜口を見守っていた眞鍋と家族の前で首相が待望の一発、病室では「万歳! 万歳! おなら万歳!」と歓喜の声が挙がり、新聞各紙も大々的に報じた。これを祝して眞鍋は「秋の夜や 天下に響く 屁一つ」と詠んでいる。しかし本人が無理を押して政界復帰を急いだこともあり、翌年浜口は亡くなってしまう。 *星製薬社長・星一(小説家・星新一の父)を放逐する策動のため、星が精神病であると診断するよう依頼されたが、眞鍋は「星はそんな男ではない」と足下に拒絶した。 *友人の寺田寅彦は、最期まで眞鍋の診察を受けようとしなかったという。理由は不明。 *晩年、ガンで入院中、妹と弟子に毎日浅草寺に参らせ、勤行を聴聞させた。2人が参拝する2時間のあいだは不思議と痛みを感じることがなかったと眞鍋本人が述白している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「眞鍋嘉一郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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