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瞳 みのる(ひとみ みのる、本名:人見豊【読みは同じ】、1946年9月22日 - )は、日本のドラマー、中国文学・中国語研究者。グループサウンズ:『ザ・タイガース』のメンバーとして活躍。ザ・タイガース解散以後は慶應義塾高等学校教諭として中国語・漢文を担当し、漢文・中国語関連参考書を出版したことでも知られる。近年は作詞、作曲、訳詩、戯曲の原作、脚本、日中近代音楽の交流史の研究などを行なっているが、近年、旧ザ・タイガースのメンバーとの音楽活動を再開したり、自らバンドを組織したり、戯曲の原作やプロデュースによる独自の芸能活動・執筆活動も行って話題となっている。 ==略歴== === ザ・タイガース時代まで === 京都市上京区出身。父親は傘製造を営んでいた〔磯前順一『ザ・タイガース 世界はボクらを待っていた』集英社〈集英社新書〉、2013年、p.26〕。のちにザ・タイガースメンバーとなる森本太郎は京都市立仁和小学校から、岸部一徳は京都市立北野中学校からの同級生で、岸部とはアルバイトなどでも二人で行動していた〔磯前、2013年、p.14〕。京都府立山城高等学校の夜間部に進学し、働きながら学んでいた〔磯前、2013年、pp.15 - 16〕。在学中は、日本民主青年同盟(民青)や社会科学研究会(社研)でも活動していた〔しんぶん赤旗日曜版2015年1月18日付3面〕。岸部とは高校が分かれたためいったん親交が途切れるが、1963年頃に四条河原町で再会、森本も加わって遊び仲間となり、2年後には(加橋かつみも加えて)バンド結成へと至る〔磯前、2013年、pp.16、21〕。これが「ザ・タイガース」の母体となり、瞳はドラム担当となった。1966年に沢田研二がメンバーに加わり、バンドは「ファニーズ」として京都・大阪で高い人気を得た。一方、父親からは勘当を受け、自活を余儀なくされた〔磯前、2013年、pp.25 - 26〕。 この頃、瞳は創価学会に所属していた〔『ロング・グッドバイのあとで』pp.51、61〕〔磯前、2013年、pp.47 -48〕。そのきっかけは、つきあいのあった先輩バンド「ザ・リンド&リンダース」〔当時の関西、大阪でトップ地位にあったエレキ、ロックバンド。ゴーゴー喫茶経営、馬主など破天荒な行動で知られ、関西芸能界では若手実力者の地位にあった。〕のメンバー〔下宿などを世話していた宇野山和夫。〕から折伏を受けたことだったという〔。大阪でバンドメンバーが合宿生活を送っていた頃、瞳は毎朝勤行をおこない、他のメンバーからは迷惑に思われていた〔〔吉田豪『人間コク宝』コアマガジン、2004年、p.25。ここでは他のメンバーから直接「それはマズいよ」と言われたとある。〕。後述の上京の際にも、瞳は途中で別れて大石寺に立ち寄っている〔。自著によると多忙を極めたその後の日々から疎遠になり離れたという。 1966年秋に上京、「ザ・タイガース」の瞳みのるとして活動する(本名から「瞳みのる」の芸名に変更したのは上京後である)。『ピー』の愛称で、「ジュリー」の愛称を持つボーカルの沢田に次ぐ人気を博し、雑誌の表紙やピンナップを何度も単独で飾った人気スターであった。当時、2大アイドル雑誌と呼ばれた「セブンティーン」「ティーンルック」の創刊号の表紙は、両方とも沢田と瞳が飾っている。 テクニシャンではないものの、将来はジャズドラマーを目指していた独特のリズム感や躍動感をもったドラムプレイは高く評価され、彼の影響を受けたドラマーも多い。平均睡眠時間4時間前後で休みは年に一度程度のハードスケジュールに追われるザ・タイガースには新曲を練習する十分な時間がとれず、レコーディングはスタジオミュージシャンによる演奏も多かったことは有名であるが、ドラムスだけはほとんどの曲において彼自身が叩いている。レコーディングにおいてボーカルやコーラスに参加することがほとんどなかった瞳のポリシーでもあった〔ザ・タイガースのバンマスは岸部おさみで演奏にこの二人が外れることはほぼ無かった。岸部リードのザ・タイガースリズム陣は現在に至っても過小に評価されている。〕。 「イタズラっ子でからかわれ役」的なキャラクターでアイドルとしての人気を不動のものとしたが、プライベートでは非常に真面目な性格で努力家でもあった。デビュー前、「ファニーズ」として活動していた頃はリーダーとして、当時関西のアマチュアバンドの登竜門といわれた大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」のオーディションを受けさせてもらえるよう熱心に売り込みをかけたり、ナンバ一番に来ていた内田裕也に声を掛けられ上京を勧められたものの、その後内田から一向に音沙汰がなかった際には、グループを代表し、宣伝材料を携え単身東京代々木上原の内田宅を訪れ、話を進めてもらえるよう交渉する〔磯前、2013年、pp.40 - 41〕など、ザ・タイガースのプロデビューはひとえに瞳の努力の賜物といっても過言ではなかった。 ヨーロッパ、オセアニア、そして日本でビートルズを凌ぐ熱狂的な人気を得ていたザ・ウォーカーブラザースの大ファンで1968年1月の武道館公演時には宿泊先である東京ヒルトンホテルへ陣中見舞いに訪れている。〔『ミュージックライフ』1968年2月号より。〕 調布市(府中市、三鷹市に跨る)の米空軍住宅地である関東村〔跡地は現在、警察大学校や東京外国語大学などへと変貌。〕の下士官家庭へ足を運び英語のレッスンを受けたり、休日でもスタジオに一人で篭り、一日中ドラムスの練習に打ち込むなど、その努力家ぶりはメンバーにも一目置かれていた。 グループの枠に囚われることのないソロのミュージシャン、タレントとしても大いに期待されていた。1968年秋頃より顕著となってきたメンバー間における人間関係の複雑化、自身の求めるバンドの在り方と事務所の売り出し方針のズレ、芸能界の汚い面云々に思い悩むようになり、1969年3月に脱退した加橋かつみに続いて同年5月にヨーロッパへ失踪を試みた際には岸部や中井マネージャー、事務所より9月の解散を仄めかされ思い留まる。 こうしてバンドメンバーを含む関係者や芸能人仲間との交流から徐々に疎遠となっていき、代わりに文化人などとの親交を温める中で、自らが高校時代に唯一真面目に取り組むことが出来た「中国語」〔かねてからインタビューなどで特技を聞かれると「中国語」と答えていた。1968年1月、明治チョコレートの懸賞賞品として発行されたソノ・シート「あなたに電話するピー」の中でも、『中国語がうまいんだぜ!』というセリフが出てくる。〕を極め、文学者を目指したいという思いが強まっていく。作家柴田錬三郎との出会いや親交をきっかけに復学を考え、そして、芸能界の仲間やファンの熱心な説得にも拘らず、解散後は芸能界の引退を決意。ファンにも堂々とその意思を公表する。 1971年1月24日、日本人アーティストとしては初の単独日本武道館公演ともなった解散公演「ザ・タイガース・ビューティフル・コンサート」でグループは解散、直ちに瞳は芸能界を引退する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「瞳みのる」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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