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矢口 壹琅(やぐち いちろう、本名:矢口 壹琅、9月20日、リングネーム:雷神⚡矢口)は、日本のプロレスラー、ミュージシャン、俳優。東京都台東区浅草出身。ニックネームは「雷神」「矢口様」「愛の宣教師」「史上最強のミュージシャン」など。 最終学歴はアメリカバークリー音楽大学ジャズ作曲科卒。株式会社アルファ・ジャパンプロモーション所属。 == 経歴 == 子供の頃から音楽と格闘技にしか興味がなかった矢口は、幼少期から家の近所の台東体育館(浅草のプロレスのメッカ)に通ってプロレスの醍醐味を味わう。プロレスラーの夢をかなえるため、学生時代は柔道の選手として活躍。その後、サンボ、合気道などの格闘技も修行。高校時代、腰痛(形態的先天異常 第1仙骨の腰椎化)によりプロレスへの夢を断念。残された音楽に夢を切り替え、それから格闘技は趣味と自ら決断しプロレスラーへの夢を一度断念する。 作曲法を学ぶため日本の大学を中退し、アメリカのボストンにあるバークリー音楽大学ジャズ作曲科に留学、同校を卒業後しばらくアメリカに住む。ジャズ作曲と共に、音楽療法を研究する。また、アメリカ在住時、格闘技のコーチや領事館での要人警護などをしていた。格闘技の練習に励むと同時に、当時はWWF(現WWE)ハルク・ホーガン全盛期で、毎月行われるWWFボストン定期戦を観るためにボストンガーデンのすぐ近くにアパートを借りていたという程の、生粋のアメリカンプロレス好きでもある。当時WWFの誘いを蹴り、マサチューセッツ州のインディペンデント団体に出ていたブルーザー・ブロディに影響を受け、インディーズのプロレスの面白さをアメリカで体感している。 矢口本人は、グリーンカードをとってアメリカに永住するつもりだったが、ある夏の日の不思議な夢により、日本へ帰国する。帰国後、アニマル浜口ジムで格闘技のための体力作りとして身体を鍛える。(こういった経緯から、アニマル浜口ジム出身であるが、プロレス道場出身ではない)その後、サンボワールドカップ出場第4位となり、プロレス界からスカウトが来る。スカウトが来たのはW★INGであったが、道場で練習させてもらっていた義理からオリエンタルプロレスでデビューすることに。デビュー前にはW☆ING群馬道場や藤原組道場へも出稽古に行っていた。 その後、新格闘プロレスで青柳館長らとともにサンボを生かした格闘プロレスで活動。修斗の佐山聡やSAWの木村浩一郎らとも稽古した。東京プロレス、W★ING、国際プロレスプロモーション、西日本プロレス、大日本プロレス、IWAジャパン、他多数のインディー団体に参戦。 新格闘プロレス所属時代には、天龍源一郎のWARに参戦。冬木弘道、邪道、外道らと闘い、仙台で行われたWAR認定世界6人タッグ王座決定トーナメントにも参戦している。阿修羅・原引退興行ではウルティモ・ドラゴンとも闘っている。また、横浜文化体育館で、師アニマル浜口とシングルマッチを行っている。ちなみに浜口ジム出身者で、浜口本人とシングルマッチを戦ったことがあるのは矢口と小原道由の二人である。デビュー時より仲が良かったビクター・キニョネスからWWFへの参戦を、ボストン出身のケビン・サリバンからはWCWへの参戦を勧められたが、やはり義理を重んじて、アマレスの大先輩である谷津嘉章のSPWF『Super Professional Wrestling Federation(スーパープロレスリング連盟)』へ参戦することを決めた。この頃、グレッグ・バレンタイン、クリス・アダムスらとも対戦していた。 SPWFに参戦後から、突如変身する。顔面にペイントをし、髪を金髪ロン毛、十字架に有刺鉄線を巻き、神格闘十字軍の教祖様として大ヒール軍団を結成し、SPWFを暴れまわり、他のインディー団体へも布教活動をする。当時の矢口のシモベとしてタッグを組んでいたのは、ザ・マーダラー、ワンマン・ギャング、紫炎龍、エキサイティング吉田、ミサ岡田、ウンモ星人など。まったくサンボ技を使わず、巨体を生かした大技や凶器攻撃や反則攻撃ばかりのファイトスタイルに変わったのは、本人のアメリカンプロレス志向と、上田馬之助の影響があったという。またSPWF在籍時、タッグを結成し行動を共にしていたパートナーのワンマン・ギャングからWWF行きを誘われたが、その後ワンマン・ギャングの事情により話は流れている。この頃、グリズリー・スミスのテリトリーから多数の大型外人レスラーがSPWFに参戦、ジェイク "ザ・スネーク" ロバーツの実弟 "カウボーイ" サム・ヒューストン、アクション・ジャクソン、ロッド・プライス、ザ・セッドマンらとも闘っている。 谷津を執拗に追いかける矢口は、その後、谷津と再び闘いたくてWJプロレスへの参戦を決めた経緯がある。WJプロレス時代は、長州力、天龍源一郎、越中詩郎、佐々木健介、鈴木健想、大森隆男、安生洋二、橋本真也、大谷晋二郎、ビッグバン・ベイダー、ロード・ウォリアーズ、ザ・クラッシャーズ(トッド・シェーン、マイク・シェーン)らと闘っていた。 大仁田厚とタッグを組み、リアルジャパンプロレスの後楽園ホール大会で、初代タイガーマスク、ザ・グレート・サスケ組と闘った。初代タイガーマスクのタイガースープレックスで3カウントを取られたが、その恐れを知らぬヒールファイトと、壮絶な受けのプロレスで観客をヒートアップさせ、評価を得た。翌、大仁田興行では、初代タイガーマスクを初めてデスマッチのリングに上げ、(矢口が放った)大仁田厚との合体サンダーファイヤーパワーボムで、きっちりと初代タイガーマスクから3カウントを取り、リベンジを果たしている。 また、小林邦昭の一夜限りの復帰戦で闘い、小林邦昭・初代タイガーマスクの合体フィッシャーマンスープレックスを食らった。 その後は大仁田厚とタッグを組むことが多く、邪道軍として、大仁田の名タッグパートナーとして、プロレスリング・ノア、を始め、各団体と闘っている。横綱・曙、またリアルジャパンプロレスでの貴闘力デビュー戦などでの迫力ある肉弾戦も、デスマッチと共に矢口の真骨頂となっている。 2015年8月、自身がレザーフェイス(モンスターレザー)の正体であることを公表し、邪道軍を脱退。リングネームを「雷神⚡矢口」へ改名し、W★INGモンスター軍のNOSAWA論外らと結託し、打倒大仁田を目標に掲げた。 2016年1月24日、大仁田厚から3カウントを奪い、FMW認定世界ストリートファイト6人タッグ選手権でチャンピオンとなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「矢口壹琅」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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