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矢来観世家 : ミニ英和和英辞書
矢来観世家[やらいかんぜけ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [や]
 【名詞】 1. arrow 
矢来 : [やらい]
 (n) rough fence of bamboo, logs, etc. constructed at battle sites or execution grounds
: [らい]
 【名詞】 1. since (last month) 2. for (10 days) 3. next (year) 
来観 : [らいかん]
 (n,vs) inspection visit
: [かん]
  1. (n,n-suf) look 2. appearance 3. spectacle 
: [よ, せい]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
: [いえ, け]
  1. (suf) house 2. family 

矢来観世家 : ウィキペディア日本語版
矢来観世家[やらいかんぜけ]
矢来観世家(やらいかんぜけ)とは、能楽シテ方観世流職分家のひとつ。観世九皐会を主宰し、分家観世銕之丞家の分家筋にあたる。梅若がかりの芸風を持ち、流内で宗家、分家、梅若両家に次ぐ格式と規模を持つ。
== 歴史 ==
明治時代、銕之丞家四世の観世清済の次男源次郎氏演が、初世梅若実婿養子となって五十三世梅若六郎を相続・襲名したものの、後に実に二人の実子(初世梅若万三郎二世梅若実)が生れたので観世姓に復し、分家したことにはじまる。分家後、源次郎は観世清之(かんぜきよし)を名乗った。清之が一旦は梅若家へ入った事情により、芸系は梅若流に属する。
*明治39年(1906年)、雑誌『能楽』に「九皐会」の名称が初出(独立は明治41年、月並会の開催は明治44年より)。
*明治44年(1911年)、初世観世喜之が神田西小川町の自邸に能舞台を建て、同年6月17日第一回観世九皐会開催。
*大正12年(1923年)、関東大震災により西小川町の舞台が焼失。
*大正13年(1924年)、目白の二世観世喜之邸内に舞台竣工、舞台披き。
*昭和5年(1930年)、牛込矢来町(現矢来能楽堂所在地、東京都新宿区矢来町60番地)に観世九皐会能楽堂落成。披露能開催。
*昭和20年(1945年)5月24日、東京空襲により九皐会能楽堂焼失。
*昭和21年(1946年)、染井能舞台にて、九皐会復興。
*昭和27年(1952年)、牛込矢来町に観世九皐会能楽堂落成、矢来能楽堂と改称し舞台披き。同年9月17日より21日まで、矢来能楽堂舞台披記念「日加壽能」を開催。
*昭和27年9月 社団法人観世九皐会設立。
*平成14年4月 矢来能楽堂50周年記念日賀寿能を開催。
*平成20年~22年 観世九皐会百周年記念公演を開催。
*平成24年4月 公益社団法人観世九皐会に移行。
明治40年(1907年)、矢来観世家は丸岡莞爾観世流改定本刊行会(現能楽書林)と協力し、それまでの謡本とは一線を画す改訂本を独自に刊行したが、これが当時の能楽界において問題となった。江戸時代以来の慣行として、流儀の謡本は宗家にのみ版権が帰属するとされていたからである。そしてこの事について宗家と清之の間で裁判となったが、結果は大審院において清之側の勝訴が確定した。以来能楽書林とは深い関係にあり、現在でも同社から独自の謡本を発行して使用している。しかし梅若流独立騒動の際には宗家側に立ち、最後まで観世流にとどまった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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