翻訳と辞書
Words near each other
・ 矢田堀景蔵
・ 矢田堀鴻
・ 矢田富郎
・ 矢田寺
・ 矢田小学校
・ 矢田川
・ 矢田川 (愛知県)
・ 矢田川 (群馬県)
・ 矢田弘
・ 矢田悠祐
矢田挿雲
・ 矢田教育事件
・ 矢田教育差別事件
・ 矢田新駅
・ 矢田旭
・ 矢田村
・ 矢田村 (和歌山県)
・ 矢田村 (大阪府)
・ 矢田村 (奈良県)
・ 矢田橋梁


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

矢田挿雲 : ミニ英和和英辞書
矢田挿雲[やだ そううん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [や]
 【名詞】 1. arrow 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [くも]
 cloud

矢田挿雲 : ウィキペディア日本語版
矢田挿雲[やだ そううん]

矢田 挿雲(やだ そううん、1882年明治15年)2月9日 - 1961年昭和36年)12月13日)は、石川県金沢市出身の小説家俳人。本名は義勝。矢田插雲とも。
代表作である全12巻からなる時代劇太閤記〔挿雲の『太閤記』は、他の作品と区別して『挿雲太閤記』と称される。〕』は1925年大正14年)から1934年昭和9年)にかけて著され、1936年昭和11年)にはサイレント映画太閤記 藤吉郎出世飛躍の巻』として映画化された。なお、1970年昭和45年)には日本テレビ系列にて『青春太閤記 いまにみておれ!』として放送された。
また、1920年大正9年)から1923年大正12年)にかけて『報知新聞』で連載された全12巻からなる歴史小説江戸から東京へ』は、都市化が進む東京の町を散策する内容で、地誌読み物の草分けとして名高い〔江戸から東京へとは - コトバンク、2013年11月21日閲覧。〕。
== 生涯 ==
1882年(明治15年)2月9日に、石川県金沢市に生まれる。幼い頃、父の転勤によって各地を転々とした。
中学時代から俳句に親しむようになり、宮城県仙台第一高等学校を卒業後に上京し、東京専門学校(現:早稲田大学)に進学する。また、この頃より俳人の正岡子規と知り合い、俳句を学ぶようになったが、本格的に句作をするべく、早稲田大学を中退した。
1908年(明治41年)以降、各地を転々として『九州日報』や『芸備日日新聞』にて新聞記者として勤めた。その後、1915年(大正4年)から新聞統制により読売新聞社と合併する1942年(昭和17年)まで『報知新聞』の社会部記者に留まった〔矢田挿雲とは - コトバンク、2013年11月21日閲覧。〕。
1919年(大正8年)ないし1920年(大正9年)頃より執筆活動を始める。
1920年(大正9年)から1923年(大正12年)にかけて、当時報知新聞社社会部の部長を務めていた作家の野村胡堂に勧められて、全12巻からなる歴史読み物『江戸から東京へ』を『報知新聞』で連載するようになる。
『江戸から東京へ』の他にも『報知新聞』に1923年(大正14年)から1924年(大正15年)にかけて歌舞伎役者を描いた小説『沢村田之助』を連載し、豊臣秀吉を描いた全12巻からなる『太閤記』を連載したが、特に読者に好評だった作品は『江戸から東京へ』であった。
1925年(大正14年)に小説家の白井喬二大衆文学作家の親睦団体である「二十一日会」を結成する。翌1926年(大正15年)秋には白井と共に『大衆文藝』を発刊して挿雲は同人となり、大衆文学興隆の基礎作りに貢献した。
また、「大日本俳交会」を結成したり、『俳句と添削』を主宰、戦後には句誌『挿雲』を主宰した。
千葉県市川市北方に「北方庵」を構え、晩年まで居住した。
1961年(昭和36年)12月13日に亡くなる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「矢田挿雲」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.