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矢田津世子 : ミニ英和和英辞書
矢田津世子[やだ つせこ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [や]
 【名詞】 1. arrow 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [よ, せい]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
世子 : [せいし]
 【名詞】 1. heir 2. successor
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)

矢田津世子 : ウィキペディア日本語版
矢田津世子[やだ つせこ]
矢田 津世子(やだ つせこ、本名矢田ツセ1907年明治40年)6月19日 - 1944年昭和19年)3月14日)は、日本の小説家随筆家秋田県五城目町出身。はじめモダン派であったが純文学に転進し、1936年に小説『神楽坂』が第3回芥川賞候補に選ばれる。文章力と美貌を兼ね備えた女流作家として人気を集めた。坂口安吾の恋人とされる。大和生命初代社長の矢田不二郎は兄。
== 来歴 ==
秋田県五城目町古川町(現在の同町下タ町)に生まれる。父鉄三郎は秋田市に居住していたが当時の五城目町長に請われて1898年に同町の助役に就任。本籍ごと一家をあげて五城目町に移っていた。母チヱは近所の娘たちに礼儀作法や裁縫を教えていた。
1914年に五城目小学校に入学するが、翌年には父が助役を辞めたため一家で秋田市に戻り、さらにその翌年には上京し飯田橋に移り住み、津世子は富士見小学校3年に転入した。小学校卒業後は、麹町高等女学校に進む。
当時東京には、第一高等学校を経て東京帝国大学に進学していた次兄の不二郎がおり、一家は不二郎とともに東京生活を送った。津世子の文学的才能を見いだしたのは兄不二郎であり、津世子は不二郎の後押しを背に受けながら生涯作家活動にいそしんだ。不二郎は自身も文学の道を進みたかったが、経済的に一家を支えるためにみずからは実業の道に進み、夢を津世子に託していた。
1923年の関東大震災で家が焼け、父親の仕事も思わしくなくなって、翌々年の大正14年にはその父親が亡くなっている。1924年、津世子は麹町高女を優等で卒業後、日本興業銀行に就職していたが、帝大を卒業して生命保険会社に入社していた不二郎が1927年に名古屋支店に転勤するのに合わせて、津世子も銀行を辞め母親とともに名古屋に移り住んだ〔名古屋転居の経緯について、多くの文献では「兄とともに東京から名古屋に移り住んだ」という記述がされているが、名古屋近代文学史研究会 では「兄が九州の支店から名古屋支店に転勤になるのに合わせて、母親とともに東京から名古屋に移った」と記されている。〕。
名古屋では同人誌「第一文学」に所属した。1929年、女性だけの文学団体「女人芸術」名古屋支部の設立に津世子も加わり、1930年初めての本格的小説『反逆』を『女人芸術』誌に発表した。同年、新潮社の『文学時代』の懸賞小説で『罠を跳び越える女』が入選、事実上の文壇デビュー作となった。
1931年春に単身東京に戻り、執筆活動に打ち込む。このころ、林芙美子軽部清子湯浅芳子ら女流作家の知友を得る。1932年、不二郎の東京転勤に伴い、新宿区下落合にて母と不二郎との3人の生活になる。津世子は亡くなるまでこの地で過ごした。
同年暮れから翌年1月頃にかけて坂口安吾と知り合い、急速に親密な交際に発展、互いの家を訪問し合うようになる。安吾は津世子に誘われて田村泰次郎井上友一郎などがいた同人誌「桜」の創刊に参加した。同年、非合法活動に入っていた湯浅芳子に頼まれてカンパに応じたことから特別高等警察に連行され、10日あまり留置される。このころより津世子の健康がすぐれなくなったと言われている。
昭和10年、のちに生涯の知友となる大谷藤子の推薦で「日暦」同人になって武田麟太郎に師事。「日暦」の同人には、高見順円地文子などがいた。
昭和11年1月頃、しばらく途絶えていた安吾との交際が再開されたが、3月5日頃に本郷の菊富士ホテルに安吾をたずねたのを最後に、その後津世子のほうから安吾に絶縁の手紙が出される。
同年3月「日暦」から改題した「人民文庫」創刊号に発表した『神楽坂』が第3回芥川賞候補作になった。12月には改造社から同作が出版された。その後も『妻の話』『蔓草』『やどかり』『秋袷』『病女抄録』などを次々に発表。津世子の多くの作品には、郷里秋田にゆかりを持つ人物や場面が出てくる。
1931年8月の『文学時代』に掲載された『波紋』が評判を呼んだ他、1938年には小説『秋扇』が『母と子』のタイトルで映画化され、1940年には小説『家庭教師』も映画化された。
川端康成は津世子を“(作家として)手堅い人”と評している。川端康成には女優になるように勧められたほどの美貌の持ち主でもあった。最晩年に結核が進行し病床に伏すようになった津世子を見舞った川端康成に、小説を書くようにと激励されて一度はペンを執ったものの未完に終わった。
郷里秋田県五城目町の五城館に矢田津世子文学記念室があり、写真、書簡、執筆原稿、愛用品などが展示されている。生家近くの福禄寿酒造脇に文学碑がある。墓所は西東京市ひばりが丘、東本願寺ひばりが丘別院。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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