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矢部 貞治(やべ ていじ〔名前の読みは「さだじ」だが、晩年自ら「ていじ」と称する。〕、明治35年(1902年)11月9日 - 昭和42年(1967年)5月7日)は日本の政治学者、評論家。東京帝国大学法学部教授、拓殖大学総長などを歴任した。従三位勲一等。政治学博士。旧姓横山。 第二次世界大戦前・戦後を問わず現実政治への関与を行い、戦前は近衛文麿のブレーントラスト「昭和研究会」に参加し、外交部会長を務めた。戦後では東大時代に指導した中曽根康弘の相談役であったことで知られる。中曽根は度々師であったと公言している。 自身の来歴から、近衛に関する多くの伝記研究を編纂執筆している。 政治史研究に関する一次史料として、矢部自身の日記が公刊されている。私蔵文書類は憲政記念館が所蔵していたが、現在は一部が政策研究大学院大学に移管され、整理・公開されている〔「矢部貞治関係文書目録一覧」http://www.grips.ac.jp/main/lib/pdf/yabemokuroku_web.htm〕。しかし、なお多数の重要な史料を憲政記念館がリザーブしており、遺族から史料の寄贈を受けたにもかかわらず未整理・非公開のままとなっている〔科学研究費成果報告書 「近現代日本の政策史料収集と情報公開調査を踏まえた政策史研究の再構築」(基盤研究(B)(1)、代表者伊藤隆平成 15・16 年度、代表者伊藤隆、課題番号:15330024)伊藤隆氏談話(2005年1月11日)、http://kins.jp/pdf/59ito_t.pdf〕。 == 経歴 == 1902年11月9日鳥取県気高郡美穂村大字向国安(現在の鳥取市向国安)の農家に生まれる。のち、愛媛県今治市出身の司法官矢部安男の養子となる。旧制鳥取中学校、旧制第一高等学校文科甲類を経て1926年3月東京帝国大学法学部政治学科を卒業、矢内原忠雄博士から教育者になることをすすめられ、政治学の創始者たる恩師小野塚喜平次博士に就いて政治学者への道を進むこととなる。 1928年 5月東京帝国大学法学部助教授。1939年 8月東京帝国大学法学部教授。1945年12月東大教授を依願免官。 1952年4月早稲田大学大学院講師。1953年 10月選挙制度調査会委員。1955年3月拓殖大学総長兼教授。5月政府委嘱でイギリス出張。12月行政審議会委員。 1956年10月公安審査委員会委員。1957年7月憲法調査会副会長。1958年9月公安審査委員会委員再任。10月行政審議会委員再任。1959年4月中央教育審議会委員。10月選挙制度審議会委員。 1960年11月文部省東南アジア教育調査団長として東南アジア4か国出張(-12月)。1961年1月憲法調査会海外調査団長として北中南米7か国に出張(-3月)。1962年7月公安審査委員会委員再々任。1964年6月拓殖大学総長辞任。爾来政治評論家として活躍。1967年5月7日急逝。従三位勲一等瑞宝章を叙授される。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「矢部貞治」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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