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矢野 玄道(やの はるみち、1823年12月18日(文政6年11月17日) - 1887年5月19日)は、伊予国喜多郡阿蔵村有松(現、愛媛県大洲市)の国学者・神道学者である。幼名は茂太郎、道号は天放散人、子清、神臣、谷倶久、後楽閑人、扶桑眞人倚松、谷蟆、梅屋。本姓は平(佐奈田余一義忠次男中山次郎盛実末)。 ==経歴== ===略年譜=== *文政6年(1823年) 大洲藩士矢野仙左衛門道正の子として、伊予国喜多郡に生まれる。 *文政8年(1825年) 三・四歳の頃、祖母の懐中に在りて千字文の類を読誦す。 *文政10年(1827年) 父・道正に就き書道を始める。 *天保4年(1833年) 平田篤胤に入門した父の勧めで国学を志す。 *天保11年(1840年) 松山の日下伯巌の塾(明教館)に入門。 *天保12年(1841年) 玄道19歳の折、名を敬逵(たかみち)と称し扶桑真人倚松と号す。 *天保15年(1844年) 二月下旬周防から長門を経由して、豊後の宇佐八幡宮や筑前の筥崎宮、太宰府天満宮などを参拝し、日向の神代古蹟を探訪後、薩摩の霧島神宮を参詣のち霧島山に登る。以後肥後を経て熊本の阿蘇山に登り帰来して見聞記を録す。 *弘化2年(1845年) 京都に上洛し、新宮涼庭の順正書院に入塾。伴信友や八田知紀を訪ねて交流す。 *弘化4年(1847年) 正月19日正式に平田家に入門する。また24日には昌平坂学問所に入塾する。 *嘉永5年(1852年) 正月鳩居堂に寓居す。皇学所設置の建白書を提出す。 *安政2年(1855年) ライフワークの一つでもある『皇典翼』の執筆を開始。 *慶応3年(1867年) 建白書が朝廷で議論され、設置の方向で話が進む。 *明治3年(1870年) 2月、東京に召され、大学中博士となり従六位に叙せられる。 *明治4年(1871年) 二卿事件への関与が疑われ、故郷に戻り蟄居する〔『国史大辞典』第14巻「矢野玄道」(執筆者:沼田哲)〕。 *明治10年(1877年) 玄道55歳の五月より病みて久しく回復せず、2月から3月にかけて、『魂神要論』及び『本教学柱』を書き上げる。弟・直道、親友・常磐井精戈と上京。12月15日 太政官修史館御用掛を任じられる。 *明治15年(1882年) 皇典講究所の初代文学部長になる。 *明治16年(1883年 1月19日御系譜勤務となる。『続皇国神仙記』完成す。 *明治19年(1886年) 帰郷し、母親の介護に当たるが、12月14日に母親が亡くなる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「矢野玄道」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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