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矢頭 高雄(やとう たかお、1934年6月25日 - 2003年3月9日)は、日本のプロ野球選手。ポジションは外野手、三塁手。 == 来歴・人物 == 山梨県大月市出身。都留高校では、1952年の夏の甲子園にエースとして出場。この時にバッテリーを組んだのは、1歳年下で、後に投手として大阪タイガースに入団し、新人王になった西村一孔であった〔。この甲子園では、1回戦で豊田泰光を擁する水戸商に敗れた。 高校卒業後は立教大学へ進学し野手へ転向。東京六大学リーグでは1953年春季リーグで優勝を経験するが、その後は明大、早大に圧倒され優勝には届かなかった。4年生時には主将を務めた。大学の1年下に長嶋茂雄、杉浦忠らがいる。リーグ通算86試合出場、289打数70安打、打率.242。 1957年に大映ユニオンズに入団、1年目から中堅手のレギュラーを獲得する。しかし大映は翌1958年に毎日オリオンズに吸収合併され、大毎オリオンズとなる。同年は主に五番打者として活躍、打率.285(ベストテン8位)の好成績を記録した。 翌年から右翼手に回り、1960年にはチームのリーグ初優勝に貢献、ミサイル打線の脇役として活躍した〔 草創期から支え続けた147人の監督列伝 日本プロ野球昭和の名将、ベースボール・マガジン社、2012年、P100〕。しかし同年の大洋との日本シリーズでは無安打に終わり、真価を発揮できなかった。1962年には強肩を活かそうという宇野光雄監督の意向で、葛城隆雄とポジションを交換し三塁手に回る。しかし翌年は再び外野手としての起用が増え、1964年からは外野手に専念。その後は森徹の移籍入団、池辺巌の台頭もあって出場機会が減り、1967年限りで現役引退。 引退後は東京・ロッテでコーチを務め、1980年からは大沢啓二(1971年途中 - 1972年までロッテ監督で大学の1年先輩)が監督を務めていた日本ハムの一軍打撃兼外野守備コーチを務め、1981年のリーグ優勝に貢献。1983年には打撃コーチ専任となる。1984年には大毎時代の同僚だった植村義信が監督に就任。矢頭はヘッドコーチを兼任するも〔、シーズン途中に植村が辞任し、監督代理として2試合指揮をとった。 同年退団後、㈱山元の取締役専務となった。 2003年3月9日に肝細胞がんのため東京都内の病院で死去〔朝日新聞、2003年3月10日付夕刊、4版、15面〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「矢頭高雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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