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石井 丈裕(いしい たけひろ、1964年10月25日 - )は、東京都大田区出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者。 == 経歴 == === プロ入り前 === 東京都大田区で自営業の家庭に生まれる。3人姉弟の末っ子で姉が2人いる〔。羽田中学では途中から就任した野球部の顧問が練習を指導せず、意欲をそがれて退部したという〔週刊ベースボール、1992年11月26日号、P.18〕。その後、誘いを受けた事から大田シャークボーイズで硬式野球を始めた〔。中学の一年先輩には元プロレスラーの安田忠夫がいる。 早稲田実業時代は、球速は速かったもののカーブも投げられず故障がちであった〔朝日新聞、1998年7月4日付朝刊、東京地方面。同、2014年5月3日付スポーツ面〕。同期の荒木大輔の控え投手として、春の選抜に出場するが、準々決勝で横浜商に敗退〔「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年〕、自身の登板機会はなかった。同年夏の選手権大会では、1回戦の宇治高との対戦で大差がつき、荒木をリリーフして甲子園初登板を果たす。準々決勝の池田高校戦でも荒木を救援するが、水野雄仁に満塁ホームランを打たれて敗北している〔「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年〕。 高校卒業後は法政大学に進学。1学年上の西川佳明や同期の猪俣隆がエースだったため、東京六大学リーグに初登板したのは3年生の秋季リーグと遅かった〔が、4年生になると頭角を現し春のリーグ戦では3勝を挙げてベストナインに選出された。同年の日米大学野球選手権大会、第29回アマチュア野球世界選手権の日本代表となる。純粋な力勝負ができる国際試合の魅力に取りつかれたという〔別冊宝島、1545号、P.72〕。リーグ戦の通算成績は8勝4敗。他の大学同期に捕手の高田誠がいる。 大学卒業後は社会人野球のプリンスホテルに進み、最速149km/hを記録する〔週刊ベースボール、1989年3月6日号、P.32〕など才能が開花。の社会人野球日本選手権では2勝をあげ準決勝に進出、熊谷組に延長13回惜敗するが、優秀選手に選出される。には都市対抗の東京都予選1回戦で打球が当たり、1.2だった右眼の視力が一時は0.1まで低下した〔週刊ベースボール、1989年8月28日号、P.30〕が、本大会でも1回戦で大阪ガスを相手に先発を果たし、同年のソウルオリンピック野球日本代表に選ばれる。 五輪前の第30回IBAFワールドカップ(アマチュア野球世界選手権が改称)では粘り強い投球で計32奪三振を挙げ〔別冊宝島、1545号、P.70〕、同大会で渡辺智男がヒジを故障したこともあってソウル五輪では潮崎哲也や野茂英雄と組んだローテーションの柱を務めている。予選リーグ初戦の対プエルトリコ戦で完投勝利を収め、続く対台湾戦では同点で迎えた9回表から5イニングを4安打無失点に抑えてチームを勝利に導いた〔別冊宝島、1545号、P.68〕。準決勝の対韓国戦および決勝の対アメリカ戦にも先発したが、決勝では4回に四番のティノ・マルティネスに2ランホームランを打たれ、敗戦投手となっている〔別冊宝島、1545号、P.74〕。大会通算ではチームトップの23.2イニングを投げ、12奪三振、防御率1.14の成績を残した〔。 まだ十分に会社に貢献できてないとして同年のドラフト会議前にはプロ入り拒否を表明したが、西武が2位で強行指名。所属するプリンスホテルが西武系列だったため、一部で密約説も噂された〔週刊ベースボール、1989年1月16日号、P.25〕。しかし同年は3・4番の小川博文と中島輝士もドラフト指名されたため、プリンスホテルの監督石山建一が石井のプロ入りに難色を示した〔。その後スカウトの毒島章一による家族への説得もあり、最終的に入団が決定。1位指名の渡辺智男と同じ契約金7,000万円、年俸840万円(いずれも推定)という高条件だった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石井丈裕」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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