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石井 兼清(いしい かねきよ)は、戦国時代の武将。龍造寺氏の家臣。石井忠義の五男。石井尾張守家(五男家)の家祖(初代)。藤兵衛尉、尾張守を称する。別名は忠房。 == 来歴 == 父・忠義や兄・忠清らと共に龍造寺家兼に仕えた。正室は於保宗益女で、家兼の曾孫。当初、石井一族は、肥前国小城郡晴気城主・九州千葉氏の戚臣であったが、台頭する国人領主龍造寺氏への支持を強く主張したのは、兄たちよりも家兼の曾孫婿である兼清であった。その功績から、家兼から偏諱を受けて「兼清」と名乗り、重用された。 主君・家兼が病死すると、兼清はその遺言を奉じて家兼の曾孫・龍造寺隆信の擁立に主導的な役割を果たす。兼清は、隆信が出家していた宝琳院に手勢を率いて出迎えに行き、佐賀城内の自邸を御座所として迎え、還俗・元服の儀式の一切を取り仕切った。また、隆信が肥前国の国人衆の叛乱により、佐賀城を追われて筑後国に亡命した際も、龍造寺氏の旧領、遺臣と連携を図り、隆信の旧領回復に貢献した。 後に、隆信は、水ヶ江家から村中宗家を相続するにあたって、水ヶ江家の家督を実弟・長信に譲ったが、兼清は長信の執権を命じられ、水ヶ江家の家政を支えた。水ヶ江家は後に多久家となる。 弘治3年(1557年)10月、龍造寺軍は、宿敵である背振山系を根拠にした国人領主神代勝利と交戦(鉄布峠の戦い)。兼清も同輩の小河信安と共に一軍の将として参陣した。しかし、敵方に参陣していた山伏阿含坊という鉄砲撃ちの名手に狙撃され、戦死した。家督は嫡男周信が相続した。 なお、兼清が長信、すなわち多久家の附家老になった経緯で、兼清の子孫の多くは多久家の家臣となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石井兼清」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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