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石井 忠俊(いしい ただとし)は、戦国時代の武将。肥前国龍造寺氏の家臣。石井忠高の次男。肥州石井党二男家(石井石見守家)の一族。 == 来歴 == 父忠高に従い、龍造寺氏に仕える。龍造寺家兼は、少弐氏の重臣馬場頼周の謀略により、謀反の嫌疑をかけられ、天文13年(1544年)の暮れ、居城水ヶ江城を追放され、筑後国へ亡命を余儀なくされた。家兼は謀反の嫌疑を晴らすべく、孫龍造寺周家(隆信の実父)らを少弐冬尚のもとに派遣したが、周家一行は、途上の肥前国神埼郡祇園原において、馬場勢に急襲され全滅した。このとき忠俊も周家に従い奮戦したが戦死した。 正室は、同族石井常延の長女法性院で、後の佐賀藩祖鍋島直茂の正室陽泰院の実姉である。子女には、嫡男忠正、女子大宝院がいた。忠正は、天正12年(1584年)3月24日の沖田畷の戦いで戦死している。大宝院は、同族石井安芸守信忠(忠俊の従兄弟、同じく沖田畷の戦いで戦死)に嫁ぎ、嫡男太郎五郎(後の鍋島茂里)、次男孫六(後の鍋島茂賢)を生み、夫の戦死後、肥前国俵石城主深堀純賢に再嫁した。 子孫は、佐賀藩士として続き、一時断絶したが、後に再興され、幕末まで存続した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石井忠俊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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