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石井 松堂(いしい しょうどう、文政8年(1825年) - 明治15年(1882年))は、幕末の肥前国佐賀藩士。国学者。通称は才作、只右衛門、龍右衛門。諱は成徳(しげのり)、鉄(まかね)。佐賀では「龍よんさん」と呼ばれて慕われており、「石井松堂」の名よりも「石井龍右衛門」の名のほうが有名である。 == 来歴 == 佐賀藩士北島武兵衛政長の次男として生まれ、後に佐賀藩主鍋島家の外戚家門石井三男家(三河守家)の石井林太夫広氏の婿養子となった。養家は、藩祖鍋島直茂の家老石井生札(義元)の子孫であり、初代藩主鍋島勝茂が誕生した家として知られた名門であった。 藩校弘道館に学び、学才を開花する。学問で身を立てる道を選び、弘道館教諭に就任。しかし、体調を崩して教諭の職を辞任後は、現在の佐賀市伊勢町に私塾純粋社を主宰し、若手藩士たちの指導にあたった。ときに幕末風雲告げる時世であり、松堂のもとには大隈重信、副島種臣、大木喬任、江藤新平、石井貞興、山田平蔵ら佐賀藩の血気盛んな若手藩士が出入りし、師と仰がれた。中でも松堂は。江藤新平の才能に一目置いていたと言われ、明治7年、江藤が佐賀の乱後に刑死したことを知るや、とても悲しみ、その後自著『江藤新平伝』を執筆している。 松堂は、枝吉神陽とともに、幕末の佐賀藩における国学の指導者として君臨し、枝吉とともに「佐賀の吉田松陰」とも称された。性格は大層な大酒呑みであり、豪放磊落と評される。しかし、子供を亡くしたときなどは、発狂するほどに悲しんだり、喜怒哀楽の豊かな性格が、若手藩士たちの人望を集めた。 現在、松堂が主宰した私塾純粋社の跡地には記念碑が建っている。墓所は佐賀市高木瀬東の本通寺にある。なお、海軍中将中牟田倉之助は親戚にあたる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石井松堂」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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