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株式会社石原プロモーション(いしはらプロモーション) は、日本の芸能事務所、制作プロダクションである。本社は東京都調布市に所在。 社名の由来は、設立者及び初代社長であった石原裕次郎の名字から付けられたもの。略称は「石原プロ」。 また、同社が制作していた「大都会 PARTIII」の『黒岩軍団』、「西部警察」シリーズの『大門軍団』にちなみ、所属タレントの集団は『石原軍団』(いしはらぐんだん)の愛称で広く親しまれている。 代表取締役会長は石原まき子〔渡社長辞任“大政奉還”石原プロ新体制に サンケイスポーツ 2011年5月12日閲覧〕。 == 概要 == 同社設立者の石原裕次郎は、もともと水の江瀧子と「石原商事」を経営していたが、1963年1月16日に石原の個人事務所(プライベートオフィス)として設立され、浅丘ルリ子などの日活の俳優が所属した。 1963年から1973年にかけて、大手映画会社に出来ない作品を作るという理想のもとに「太平洋ひとりぼっち」、「黒部の太陽」、「栄光への5000キロ」など、石原主演映画を中心に多数の映画を製作した。1967年から1969年にかけては、黛ジュンの大活躍によって、一気に経営が潤った。しかし、「黒部の太陽」や「栄光への5000キロ」に代表される石原の主演映画の膨大な製作費に充てられ経営を圧迫、当時は映画産業の斜陽が深刻化していた頃で、「ある兵士の賭け」など興行的に失敗した作品が多く、それらの事由で会社存続が危ぶまれ8億円(当時)近い借金を背負ってしまった時期でもあった。 そんな苦しい状況に喘いでいた1972年、テレビへの過小評価から頑なに出演を拒否していた石原であったが、周囲の強い説得で嫌々ながらもテレビドラマ「太陽にほえろ!」(東宝・日本テレビ製作)に出演する事となる。放送開始された「太陽にほえろ!」は見事、高視聴率・高人気を獲得する事となり、そこでテレビが持つ影響力の大きさを身をもって体験したことがもとで、後に活動の軸足を映画からテレビに移していくこととなる。そして、劇場映画の製作からは手を引いたものの、会社の再建のため、また自分が愛してやまない映画をもう一度作りたいという理由で、自社でテレビドラマ「大都会」「西部警察」シリーズを量産して高視聴率をたたき出し、10億円近くの借金を返済したのみならず30億円近くの資産を築き、見事再建を果たした。 また、会社存続が危ぶまれた当時、日活に所属しながらも石原を兄のように慕っていた渡哲也を皮切りに俳優が所属するようにもなり、彼らのマネジメントも手掛けるようになった。石原裕次郎亡き後は、副社長の渡が社長に昇任し、所属俳優の神田正輝・舘ひろしも共に取締役に就任し(それぞれ登記上は本名名義)、専務は「コマサ」こと小林正彦が石原の亡き前から長年にわたり務めていた(詳しくは本人の項を参照)。 しかし、2011年3月28日の株主総会で、石原まき子会長以外の取締役5人が退任。代表取締役社長であった渡哲也、取締役であった神田正輝と舘ひろしは、一俳優として石原プロに所属することとなった。また、専務取締役であった小林正彦は、業界から引退することとなった〔。なお、現在の所属タレントや社員は同年6月30日付で全員一旦退職した上で、翌7月1日付で一部社員が再雇用される形になる〔石原プロ“大政奉還”渡社長退任 まき子夫人に経営を全面委任 - 中日スポーツ・2011年5月12日〕〔渡哲也「健康と年齢」理由に石原プロ社長勇退 スポニチアネックス・2011年5月12日〕。 2015年6月22日、チャンネル銀河株式会社と業務提携契約を締結。それに伴い、同社代表取締役会長の石原まき子がチャンネル銀河株式会社名誉会長に、また、チャンネル銀河株式会社代表取締役社長の関本好則が石原プロモーション会長特命コンテンツアドバイザーに就任した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石原プロモーション」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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