|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 石 : [こく, いし] 【名詞】 1. volume measure (approx. 180l, 5 bushels, 10 cub. ft.) ・ 原 : [はら, もと] 1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation ・ 俊 : [じゅん] 【名詞】 1. excellence 2. genius
石原 俊(いしはら たかし、1912年3月3日 - 2003年12月31日)は日本の実業家である。日産自動車社長、日本自動車工業会会長、経済同友会代表幹事として、日本の自動車産業や財界活動に大きな影響を与えた。 ==来歴・人物== ===日産自動車=== 東京の府立四中、旧制浦和高校を経て、1937年、東北帝国大学法文学部卒業後、日産自動車に入社。経理・財務関係の部署に勤め、専務や副社長として川又克二社長を支えた。 1977年6月、前任者の岩越忠恕を継いで同社の社長に就任すると、新経営方針の「グローバル10」を発表し、労使関係の改革に着手した。これは、世界の自動車生産における日産のシェアを10%へ引き上げるという目標を掲げた積極的な経営方針の表明であり、その後10年近く続く労使対立のきっかけともなった。 日産では川又の前任者である浅原源七社長時代の1953年の大争議中に労使協調路線の労働組合である日産労働組合が結成され、影響力を及ぼしていた塩路一郎委員長は同盟系の自動車総連初代会長も兼任して、日産の内外で大きな影響力を公使した。長年にわたる川又との蜜月状態は日産の労使関係を安定化させ、日産をトヨタに次ぐ日本第二の自動車メーカーに発展させる一助となったが、経営陣は労働組合(すなわち塩路)の同意無しでは意志決定が出来ないという弊害も生んでいた。 当時の石原社長は「グローバル10」で野心的な経営拡大方針を示し、当時深刻になっていた貿易摩擦への対応策として、アメリカやヨーロッパでの現地生産や資本参加を進めた。1980年にはスペイン企業「モトール・イベリカ」への資本参加、ドイツのフォルクスワーゲンとの提携生産などを発表し、1981年にはイギリスのマーガレット・サッチャー首相との間でイギリス国内での現地工場建設協定に調印した。 この野心的な急拡大方針は労連の塩路委員長の反対を無視する形で進められたため、石原社長と塩路、すなわち新経営陣と労組の関係は悪化した。また、川又会長は塩路を支持し石原社長を批判したため、社内の混乱は拡大した。この社内抗争で、石原は1983年に川又を相談役に退け、まず経営陣内の主導権を掌握した。続いて、1982年に全民労協副議長となっていた塩路への本格的攻撃を開始した。1984年に塩路の女性問題が発覚すると、石原による社内改革の主張が工場勤務社員からの支持を集めた。彼らは塩路に対し、長年に及ぶ組合内独裁や労働貴族と呼ばれる豪華な生活に対して不満をくすぶらせていた。石原は自らが会長になった後の1986年2月には塩路を全ての役職から退かせる事に成功した。なお、同年3月には川又が死去した。塩路は1987年に定年退職したが、その影響力は完全に失われていた。 1985年6月、石原は社長職を久米豊に譲り、自らは会長として引き続き日産の経営に携わった。既述の労組対策の他、世界市場での日産のシェア拡大とブランド定着を目指した。しかし、積極的な海外進出の多くは失敗に終わり、巨額の赤字を生んだ。また、従来のダットサン(DATSUN)ブランドをニッサン(NISSAN)に統一した決定も失敗と評され、特に北米市場で歴史と競争力を持っていたダットサン(DATSUN)ブランドを自ら放棄した日産の売り上げは低迷した。「グローバル10」の急拡大路線は1990年代のバブル景気崩壊により日産の財務体質を悪化させ、1992年の辻義文社長就任を機に石原は相談役に退いた。その後も日産の経営は迷走を続け、塙義一社長時代の1999年にはフランスのルノー傘下へと下るに至った。2003年12月31日死去。享年91。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石原俊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|