|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 石 : [こく, いし] 【名詞】 1. volume measure (approx. 180l, 5 bushels, 10 cub. ft.) ・ 原 : [はら, もと] 1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation
石原 昌淳 (いしはら しょうじゅん、1900年(明治33年)2月5日 - 1995年(平成7年)10月16日、享年97)は、琉球政府時代の政治家で実業家。 旧美里村議会議員、美里村助役、沖縄県会議員、沖縄民政(沖縄民政府)議会議員、群島 (沖縄)議会議員、立法院議員、琉球政府中央教育委員会委員長、琉球工業連合会副会長、沖縄製塩〔 - 参考写真資料〕〔 - 参考写真資料〕社長などを務めた。勲五等瑞宝章授章。 沖縄県沖縄市泡瀬出身。 ==経歴== 1900年(明治33年)、現在の沖縄県沖縄市泡瀬地区にて生まれる。 大正の末期から昭和10年頃にかけての沖縄の政治界は、本土における二大政党、民政党(立憲民政党)と政友会(立憲政友会)との対立に巻き込まれて、激しい勢力争いが続いていた。沖縄県選出の国会議員や県会議員の殆どが、この二大政党のいずれかに属し、選挙の際には自派の議員の選出に懸命であった。この民政党と政友会との対立を、当時の沖縄の人々は、シルー(民政党)クルー(政友会)の対立と呼んでいた。沖縄方言でシルーは、白色、クルーは、黒色の意。この白黒抗争が激しくなったのは、有権者の資格になっていた納税額(国税年三円)の制限がとかれて、有権者が多くなった1928年(昭和3年)の普通選挙(第16回衆議院議員総選挙、別名“第1回普通選挙”。“普選”という略称で呼ばれる場合もある。)以後であった。ちなみに当時の選挙権は、男子ばかりに与えられていた。石原昌淳の出身地である沖縄県美里村、泡瀬地域も例に漏れず、県会議員選挙、村長選挙のみならず区長選挙にまで激しい政争が繰り広げられた。これらの政争が1930年(昭和5年)頃から数年にわたり、泡瀬の字内に持ち込まれたために、これまで至って融和状態であった字民の人間関係が、次第にぎすぎすしたものになり、字民の社会生活を暗くして行った。昭和に入ってからの、白黒の政治抗争は沖縄のあちこちで大なり小なり見られたが、沖縄県中部、中頭郡内は特に政争が激しい地域であった様である。 この政争による泡瀬の感情的対立を憂慮した、良識と勇気のある先輩たちによって、政争解消への動きが活発化していった。その推進役となったのが、当時、美里村助役であった石原昌淳と、前収入役の伊佐真安、並びに両氏に協力を惜しまなかった、数名の有志の方々であった。 彼らの白黒解消への運動は次第に功を奏し、賛同する者が増加、やがて対立抗争解消のための調停委員会が結成されるに至った。調停委員会の委員は、五区に分かれた泡瀬の各区から選出された六名宛、計三十人であった。この委員会によって慎重に作成された調停案は、字民総会において承認、可決された。以下に示す * 泡瀬を五区に区分して五区制とする。 * 現在の字の組織は、泡瀬連合自治会へ組織替えをする。 と言うものであった。当時の泡瀬が大きな字であったことも対立抗争を生む要因の一つであったから、解消のためには五区制に移行する必要があったが、その後、各区の区民総会及び字民総会において承認、可決されることになった。 昭和12年(1937年)5月から、泡瀬はこれまでの一区制から五区制へと移行し各区に、それぞれ区長が任命された。そして、泡瀬連合自治会長には、石原昌淳が任命された。 五区制移行後の事業には、以下のようなものがある。 #市場の北側にあった池の一部を埋め立て、昭和15年頃に新しく連合自治会事務所を建設した。ここでは、村芝居も行われた。 #旧事務所は、改修して青年会と婦人会の事務所及び図書館として活用した。 #市場周辺を整備して、市場及び字の集会場として活用した。 #連合自治会の役員の中に、参与として青年会代表、婦人会代表を加え字民の声を、自治行政に反映させるようにした。 このようにして、長年にわたる泡瀬の白黒の政争は、字民の協力、反省と自覚によって解消し、従前にも増して平穏で、活気のある泡瀬へと甦って行った。石原昌淳は、この様に地方自治のリーダーであった。 1939年(昭和14年)頃から製材業を営むが、前述の通り1946年(昭和21年)沖縄市の前身である旧美里村助役、米軍統治下の群島 (沖縄)議員、そして沖縄群島政府解消後の1952年(昭和27年)3月には第1回立法院議員総選挙に第4区から社大党(沖縄社会大衆党 )所属で出馬し当選。琉球政府時代の政治家として活躍した。 一方、1946年(昭和21年)に現在の沖縄市泡瀬に沖縄製塩を設立。沖縄戦で荒廃した泡瀬塩田の復興と改良に努め、1954年には近代的効用罐式製塩工場を完成させて、戦後の沖縄で塩の安定供給を可能とし、沖縄における近代的製塩業の基礎を築いた。その経験が認められて1957年に琉球工業連合会副会長に任命された。また、1958年琉球政府中央教育委員会委員にも任命され約10年間の在任期間中、1964年 - 1967年には、同委員長も務めた。 1948年(昭和23年)石原昌淳らが中心となり泡瀬復興のため泡瀬復興期成会が組織された。その大きな目的は、終戦後、避難先から帰った泡瀬住民の居住地が軍用地に接収されたので、泡瀬軍用地の早期開放を当時の米国民政府に陳情することであった。そして1959年(昭和34年)泡瀬内海を軍の費用で埋め立て代替の居住地として泡瀬住民に与えることを陳情する「泡瀬内海埋立に関する陳情書と事業計画書」を米国民政府へ提出した。その結果、1966年(昭和41年)泡瀬内海埋立事業は、竣工することになる。 1970年4月29日 長年の功績に対して勲五等瑞宝章の叙勲を受けた。 1972年の沖縄返還後、塩の専売制が導入されると、沖縄県の製塩業は歴史の幕を閉じたが、その後も沖縄塩元売社長及び会長を歴任し晩年まで「塩」に関わる仕事で活躍した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石原昌淳」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|