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石塚 重平(いしづか じゅうへい、安政2年10月10日(1855年11月19日)〔『大阪事件志士列伝 中編』95-101ページ〕 - 明治40年(1907年)8月12日〔『官報』第7238号、明治40年8月14日〕)は、日本の衆議院議員(自由党→立憲政友会→甲辰倶楽部→大同倶楽部)。 == 経歴 == 信濃国北佐久郡小諸(現在の長野県小諸市)出身。1877年(明治10年)に盤鴻社という政社を結成して、政談会や討論会を開催して自由民権運動を推進した〔。また町会議員や郡会議員に選出され、布施銀行や小諸銀行の設立にも関わった〔。 1881年(明治14年)、自由党の創設に加わったが、1884年(明治17年)に自由党は大阪で解党を決定した。大阪からの帰途、内乱陰謀の嫌疑で逮捕されるが程なく釈放された〔〔『現今日本名家列伝』い58-59ページ〕。しかし翌年、大阪事件に関与したとして逮捕され、1887年(明治20年)に有罪判決を受けた〔。1889年(明治22年)に憲法発布の恩赦で釈放されると、大同団結運動に加わり、再興された自由党の幹事に就任した〔。 1894年(明治27年)、第4回衆議院議員総選挙に出馬して当選した。立憲政友会創立に参加し、1900年(明治33年)に総裁の伊藤博文が内閣を組織すると大蔵省官房長に任命された〔。しかし翌年に第4次伊藤内閣が倒れるとともに辞職し、衆議院補欠選挙に出馬して当選した〔。1902年(明治35年)の第7回衆議院議員総選挙でも当選したが、翌年に伊藤博文の総裁独裁制に反対して立憲政友会を離党した。その後、第9回衆議院議員総選挙で4回目の当選を果たすが、在職中に死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石塚重平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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