翻訳と辞書
Words near each other
・ 石崎正勝
・ 石崎汽船
・ 石崎洋
・ 石崎洋司
・ 石崎琴美
・ 石崎産業
・ 石崎直
・ 石崎祥之
・ 石崎聖子
・ 石崎芳行
石崎融思
・ 石崎達
・ 石崎隆之
・ 石崎雄樹
・ 石崎駿
・ 石崗飛行場
・ 石嶋久仁子
・ 石嶋由美子
・ 石嶋裕美子
・ 石嶺伝一郎


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

石崎融思 : ミニ英和和英辞書
石崎融思[いしざき ゆうし]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こく, いし]
 【名詞】 1. volume measure (approx. 180l, 5 bushels, 10 cub. ft.) 
: [みさき]
 (n) cape (on coast)

石崎融思 : ウィキペディア日本語版
石崎融思[いしざき ゆうし]

石崎 融思(いしざき ゆうし、明和5年(1768年) - 弘化3年2月28日1846年3月25日))は江戸時代後期の長崎派絵師唐絵目利として漢画・洋風画を折衷させた写実的洋風画を確立。
幼名慶太郎、融思は通称。は士斉。鳳嶺とし、後に放齢と改める。居号に鶴鳴堂・薛蘿館・梅竹園などがある。長崎の人。
== 略伝 ==
唐絵目利荒木元融の子として生まれる。父から漢画・洋風画を学び、ガラス絵の絵付け法も習得。父元融の師である石崎元徳からも洋風画を学ぶ。
父の師・石崎家では初代元徳が明和7年(1770年)に没し、安永7年(1778年)には二代元章が世継ぎのないまま48歳で没する。元融の実子元甫を養子としたが、この三代元甫までもが夭折してしまう。元融の意向で融思は石崎家の養子となり、21歳にして石崎家四代の家督を継いだ。一方、荒木家は養子の荒木如元が継ぐがなんらかの理由で家を離れる。
融思は長崎漢画南蘋派の画法に、オランダから伝わった遠近法陰影法をうまく取り入れ、独自の写実的画風を生み出すことに成功。画才に長け長崎画壇の中心的な存在となった。文化文政期には門人が270余名になったという。木下逸雲鉄翁祖門三浦梧門らも入門している。
漢詩吉村迂斎篆刻清水伯民に学ぶ。寛政11年(1799年)から一年間にわたり大坂伊勢などを遊歴。木村蒹葭堂本居宣長と交友する。
14歳で唐絵目利見習いとなり、20代頃にで唐絵目利本役に昇進(時期不明)。32歳のときに唐方俗式絵図認掛に任ぜられ「清俗紀聞」を制作。55歳のときオランダ船に船載されてきた象を写生し、『全象活眼』を刊行。天保3年(1832年)、64歳のとき松森神社の職人尽絵を彩色し修繕に尽くした。翌年に52年間勤めた職を致仕するが、その功労が認められ死没する79歳まで毎年銀300目が送られた。融思の人生は順風満帆に見えるが、29歳のとき若妻を失い37歳のとき子の融済が夭折。55歳のとき愛娘エイを亡くしている。
弘化3年(1846年)没。孫の融吉が後継となった。
隠居後も名勝図などを盛んに画いており、川原慶賀の「慶賀写真草」(天保7年・1836年)に序を寄せていることから、町絵師との交流があったことがわかる。交友のあった田能村竹田は『竹田荘師友画録』で「西洋画を善くする」と融思を記している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「石崎融思」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.