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石嶺 和彦(いしみね かずひこ、1961年1月10日 - )は、日本の元プロ野球選手(外野手、捕手)、プロ野球指導者、野球解説者。 == 来歴 == === アマチュア時代 === 沖縄県那覇市出身。小学校5年の時に、那覇カープという少年野球チームで本格的に野球を始めた〔海老沢泰久『ヴェテラン』文春文庫、1996年、P.102〕。投球動作がコンパクトだったため捕手として起用されたが、投手に憧れていたという〔。小学校6年の時にチームは沖縄県大会で準優勝し、石嶺も捕手として注目されるようになった。 豊見城高校では栽弘義監督のもとで猛練習を積み、には下地勝治をエースとして擁するチームで2年生ながら四番打者を務め〔海老沢泰久『ヴェテラン』、P.103〕、選抜大会に出場した。同大会では優勝した箕島高校と2回戦で対戦し、0対10で敗れている。夏の選手権ではベスト8まで進んだものの、松本正志や宮本賢治を擁する東洋大姫路に3対8で敗れた。 3年の春の選抜大会は1回戦で敗れたものの、夏の選手権では和田豊を擁する我孫子高校を初戦で延長の末に破ると再びベスト8に進出。石嶺自身は甲子園初の本塁打を放つも、岡山東商に5対6で惜敗した。大会後はスカウトが自宅を訪れるようになり、最終的にはヤクルトを除く11球団のスカウトが来たという〔海老沢泰久『ヴェテラン』、P.104〕。一方で、試合中の死球が原因で高校時代から左ひざ半月板がたまにズレるようになっていた〔。 結局、1978年のドラフト会議では阪急ブレーブスと広島東洋カープから2位で指名され、抽選により阪急に交渉権が与えられた。しかし栽は早くから社会人野球のプリンスホテルへ入ることを勧めており、また石嶺自身や両親は東芝か日本石油に進んでヒザを治療することを希望していた〔海老沢泰久『ヴェテラン』、P.105〕。栽の希望を無碍にできないため進路はなかなか決まらなかったが、沖縄県出身の砂川恵玄が栽を説得した事もあって12月に阪急入りが決まっている〔。契約金および年俸はそれぞれ2,500万円、240万円(いずれも推定)で、同年の高卒選手では最高の金額だった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石嶺和彦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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